(コレラ)
【近代】
インドの風土病であったコレラ(虎列刺)は、欧米諸国の東アジアへの進出によって各国で流行するようになり、開国後の日本でも欧米諸国との貿易・交流が盛んになると、安政5(1858)年に長崎から全国に広まったのを始めに、国内で流行を繰り返すことになった。西南戦争に動員された兵士の間にコレラ患者が出ていたため、政府は明治10(1877)年8月「虎列刺病予防法心得」を頒布し、患者が出た際の行政機関の対応、患者隔離のための避病院の設置、吐瀉物の処理、死者の埋葬、消毒法などを指示した。この予防法心得は愛知県から大区を通して各町村に徹底され、他方で県は大区ごとに医務取締を配置するなどして、周到な伝染病対策が立てられていった。同年9月の第12区(加茂郡)会所のコレラ予防法によれば、予防のための健康法、腐敗物の処理、類似症状が出たときの対処法、飲食物への十分な配慮などが具体的に指示された。明治12年にもコレラが全国的に大流行した。このため政府は8月、「虎列刺病予防仮規則」を公布し、対処した。しかし翌13年7月、この仮規則は廃止され、最初の体系的な伝染病予防対策である「伝染病予防規則」を制定された。コレラ患者を隔離する避病院や患者が出た家屋には「虎列刺病」と記した旗も掲げられることになった。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻88ページ、10巻212・761ページ
→ 避病院