(ころもしせいしこう)
【現代】
昭和22(1947)年の津島市、翌年の碧南市の市制施行が刺激となり、挙母町でも市制施行を求める町民の声が大きくなった。これを受けて、町は他都市の調査を行い、加茂新聞社は「大挙母市建設構想」懸賞論文の公募を行い、町民の関心を盛り上げた。こうした動きの中で、昭和25年12月8日の臨時町議会で挙母市制施行の決議を行い、12月20日、町は「挙母市制施行申請書」を県に提出した。県は翌年1月、地方課長以下を現地へ派遣し、市制のための要件をみたしているかどうかを調査させた。その結果、挙母町の市街地が3か所に分かれていることが問題視され、上下水道や文化施設の整備状況についても不十分との評価ではあったが、県議会の総務委員会の現地調査を経た結果、翌年2月23日の県議会で挙母市制施行案が満場一致で可決された。昭和26年3月1日、愛知県下12番目の市になった挙母市では市役所開庁式が行われ、初代市長渡辺釟吉によって「挙母市役所」の看板が掲げられた。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻6ページ
→ 渡辺釟吉