(ころもじょう(さくらじょう)あと)
【考古】
現存する構築物としては、元城町の桜城址公園内に二の丸北東隅櫓の櫓台があり、市指定文化財「挙母城(桜城)隅櫓跡」として保存されている(写真)。高さ6.4mの花崗岩の切り石を布積した石垣で、上端面は南北8.7m・東西8.7mを測る。北側上辺中央に構築年(明和2〈1765〉年)と作事10人の名前が刻まれている。また豊田信用金庫本店新築工事に伴う事前調査として二の丸の北西隅部およびその周辺が三次にわたって発掘調査されている。第一・三次調査では、「三河国挙母城築絵図」にある二の丸北西隅突出部の石垣と堀が検出され、堀は障子堀で、堀の東側と二の丸側では石垣が認められたが、外側(本丸側)では石垣は認められなかった。また上記築城絵図によると、突出部の南西角対岸に本丸北側の堀が取り付くことになっているが、その痕跡が認められず、本丸普請は行われなかったとする文献史料からの所見と一致している。石垣は「城築絵図」に描かれている「水敲石垣」で、花崗岩の切石を整層積みしており、2~3段分が遺存している。堀の掘削時期は特定できないものの、「下層」から18世紀末~19世紀初頭の遺物が出土している。「中層」以後に堆積した土層からは倒壊土塀の残骸や、石垣の裏込め石等の堆積が確認されており、桜城から七州城への引城に際して人為的に土塀や石垣等の破却や、人為的な埋め立てが行われたとみられている。また石垣については、北側の石垣の裏込めから17世紀末~18世紀前半の本多家の時期の陶器類が出土したことにより、北石垣は本多家の陣屋に石垣を新たに加えた可能性が指摘されている。第一・二次調査区には郭内もふくまれていたが、後世の撹乱が激しくて検出された遺構はわずかであった。しかし、郭内の整地層から出土した遺物の年代が17世紀中葉を下限としていることから、三宅家の田原転封直後に、衣陣屋域で整地作業が行われたと考えられる。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻122ページ、20巻80ページ
→ 挙母城