挙母商人 

 

(ころもしょうにん)

【近世】

挙母城下の商人。挙母城下は、挙母藩の支配の拠点であるのみならず、水陸交通の結節点として商品流通が発展し、多様な商人が存在していた。挙母商人として古くから存在が確認できるのは、本町の永田家と成田家、北町(のち中町)の川上家といった酒造家で、竹生町の菊屋平岩家と中町の大澤屋大澤家は、近世後期に酒造を始めている。城下には、本町の大坂屋庄右衛門・善右衛門、中町の高崎甚三郎、配津屋栄蔵・茂助・八十吉、配津屋成田儀助、木綿屋(米屋)重吉、川上七右衛門・喜兵衛、大澤屋弥十吉、中嶋屋浅吉、伊右衛門、神明町の木綿屋栄助、西町の米屋茂助、米屋伊助、北町の米屋高見惣兵衛、竹生町の杉本彦兵衛、綿屋小野弥兵衛、中根伊三郎、樹木東町の綿屋川上半右衛門など、挙母藩をはじめとする周辺領主の蔵米や年貢余剰米、麦・大豆などの穀物を扱う商人も多く存在した。このうち配津屋八十吉と木綿屋重吉は、未遂に終わったものの加茂一揆の際に一揆勢の標的となっている。挙母やその周辺地域では木綿栽培が盛んで、城下には南町の吉田屋(藤屋)吉田家・枡田屋幸右衛門、中町の油屋利重郎・配津屋成田儀助・綿屋余語久左衛門、神明町の綿屋・米屋兼蔵、北町の米屋高見惣兵衛、竹生町の杉本彦兵衛・綿屋小野弥兵衛・綿屋植松喜六・白木屋権吉、樹木本町の綿屋勘助・兵右衛門、樹木東町の綿屋鉄蔵・鈴木屋文蔵・綿屋川上半右衛門など、綿や木綿を扱う商人が多数存在していた。繰綿商人たちは、安政7(1860)年に仲間を結成し、取り締まりのために挙母下町・樹木などの取締方や行事役を定めているが、幕末の綿作の不作や物価高騰の影響で休業した家も多かった。また、本町の木川屋犬塚権兵衛や北町の川上孫八郎、神明町の間宮助五郎など、木綿栽培に必要な肥料を扱う商人も存在していた。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻338ページ