挙母戴恩会

 

(ころもたいおんかい)

【近代】

大正6(1917)年9月に旧挙母藩士族によって結成された団体。これに先立つ明治36(1903)年に旧三河挙母藩内藤家当主内藤政光の輔翼を目的に挙母協同会が、続く明治42年には同じく政光の輔翼を目的に挙母協和会が発足していた。協同会の拠点は東京にあった。協和会については不明であるが、挙母戴恩会は拠点を挙母町に置いていた。当初会長に黒部善哉、理事に山本謙次郎・牧野敏太郎がそれぞれ就任し、歴代藩主への報恩と旧挙母藩士族の親睦を目的としていた。アジア・太平洋戦争の最中に活動の中断を余儀なくされたが、昭和53(1978)年の七州城隅櫓の再建の際に旧挙母藩士族渡辺良策(挙母町長、初代挙母市長渡辺釟吉の父)の孫にあたる渡辺晃と同じく旧挙母藩士族根本霊麿の曾孫である根本悦夫を中心に再び活動を始め、平成4(1992)年と同7年にも会合の機会が設けられている。平成7年の会合の際には内藤学文公顕彰会の発足について協議され、同年11月の顕彰会発足の際に発展的に解消した。


『新修豊田市史』関係箇所:4巻399ページ

→ 挙母城址保存活動内藤政光根本霊麿渡辺釟吉