挙母大火 

 

(ころもたいか)

【近世】

挙母城下では、享保20(1735)年の挙母東町大火事ののち、天保6(1835)年大晦日、挙母北町浄久寺南より出火して130軒を焼失、さらに同9年・10年と連続して東町から出火し、それぞれ30軒、34軒を焼失しており、『七州城沿革小史』はこれを「天保三度火事」と称したと伝える。これに対し挙母藩では、城下に火除地を設けるとともに、出火の際の消火出動体制を整備している。大きな被害をもたらす火災の予防については、正徳元(1711)年に幕府が放火禁令の高札を掲げたほか、各領主も入封時には必ず領民にその遵守を求める条項として示達するなど、最大限の注意を払っている。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻469ページ