挙母町

 

(ころもちょう)

【近世】

慶長9(1604)年にこの地域に入部した三宅康貞は衣城(桜城)を築き、その城下として東西と南北に走る大通りを造成し、通りに沿って大手町(のち南町と改称)・本町・東町・北町(のち中町と改称)・神明町、西町、竹生(竹尾)町の7町からなる衣(挙母)町が建設されたとされる。その後、幕領時代であった延宝期(1673~81)に作成されたと考えられる「衣下町の図」(写真)によれば、新たに新町(のちに北町と改称)が加わり8町となり、天和元(1681)年の本多忠利入部から18世紀前半までに町域は東側と北側に拡大し、東町の東側に東新町(のち東町に吸収)、竹生町の北側に北新町(のちに竹生町に吸収)が設けられた。さらに宝暦11(1761)年頃には西側に袋町が設立されたとするが、天保9(1838)年の「御城下町役人心得」には袋町に関する記述は一切ない。なお、安永8(1779)年、度重なる水害により内藤家は低地の桜城から高台の七州城に居城を移転することを願い出て、それに伴い七州城近くに城下町として樹木町が整備され、東町・南町・本町の一部住人が移転している。大手町(のち南町と改称)、本町、東町、北町(のち中町と改称)、神明町、西町、竹生(竹尾)町、新町(のちに北町と改称)の8つの町は、周辺の村と同じように年貢諸役などを請け負う団体として領主側から認定され、庄屋などの役人も町ごとに任命されていた。少なくとも18世紀中期以降は庄屋・組頭・百姓代の三役体制が採用されている。各町の庄屋以下の役人の職務内容は、領主に対する年貢諸役の徴収業務、町の居住人数やその身分・職業などの調査・報告、諸稼ぎの新規開業申請といった町の住人から領主側の役所へ提出する書類の取り次ぎなど基本的には村の役人と同様であった。以上のような個別の町とその役人の存在とともに、少なくとも嘉永年間(1848~54)以降には8町全体に関わる役職として町年寄(町年寄取締)、町目付、月番庄屋が存在した。挙母町の戸数は延宝年間で442軒、内藤政苗が入部した寛延2(1749)年では616軒と増加している。人口も延宝元(1673)年2476人、寛延元年2815人と増加しているが、その後、宝暦11年までは新たに設置された袋町の21軒が増加したのみで、挙母町の家数・人口の増加は鈍化している。天保9年の「御城下町役人心得」では挙母町の家数707軒、人口2186人となっており、寛延期と比べると家数は増加するものの人口は減少している。挙母城下の8町には本多家や内藤家に小役人・足軽・中間として抱えられた人々や家中の奉公人として抱えられた人々も居住していた。そのほか寛延2年の「三州加茂郡御領分村々指出帳」によれば、出家、禰宜、山伏、医師、酒屋、大工、桶屋、指物師、塗師屋、紺屋、座頭、煙草問屋、馬問屋、船宿といった職業も確認できるが、そのほかの多くは農人として一括されている。ただし、18世紀後半以降は酒造業や小売りを営む酒屋、米・麦・大豆などを扱う穀物商人、実綿・繰綿や木綿反物を扱う木綿商人、木綿などを栽培する上で不可欠な干鰯・〆粕などを販売する肥物商人といった各種商人、あるいは髪結、郷宿、旅籠、湯屋などの店舗を構えた人々を確認することができる。なお、挙母城下では毎月の5日・15日・25日は本町で、10日・20日・晦日は中町(もと北町)で市が開催され、瀬戸の瀬戸物商人など周辺からの行商人も集い、通りに面した町屋の門先(軒先)が仮設の売り場となっていた。また定期市とは別に、城下北口に位置する竹生町では馬市も開催され、これらの定期市や馬市にあわせて芸能興業が企画された。


『新修豊田市史』関係箇所:3巻43・186・338ページ

【近代】

明治25(1892)年~昭和26(1951)年の西加茂郡の自治体名。矢作川の西岸に位置している。明治4年の廃藩置県により、挙母城(七州城)を中心とする城下町が挙母村となり、明治25年に町制施行し挙母町となった。さらに明治39年に周辺諸村を編入し領域を広げた。合併各村の大字を継承した以下の12の大字(挙母、梅坪、宮口、本地、千足、土橋、金谷、下市場、下林、長興寺、今、西山室)からなっていた。その後、昭和26年の市制施行により挙母市となり、昭和34年に豊田市と改称した。明治17年の地籍帳からのちに挙母町となる各村の土地利用データを総計してみると、田770町、畑530町、宅地75町、山林原野1119町であり、同じく明治24年の「徴発物件一覧表」の総計は、戸数1906、人口8898人(うち、男性4356人、女性4542人)であったことがわかる。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻194ページ

→ 挙母市制施行