挙母藩内藤家墓所

 

(ころもはんないとうけぼしょ)

【考古】

寛延2(1749)年の挙母入封から明治4(1871)年の廃藩置県に至るまでの約120年間、当地方を治めた挙母藩主内藤家の国許の墓所で、浄土宗洞泉寺境内(挙母地区小坂町)にある。内藤家の入封時には、前領主本多家の陣屋の北隣(現在の中町)に所在していたが、安永9(1780)年にはじまった挙母城の高台(童子山・樹木台)への移転に伴い、洞泉寺も天明5(1785)年に現在地に移転したと伝わる。そして天保10(1839)年には内藤家の位牌所に定められ、さらに挙母5代藩主内藤政優の弟政乂をはじめ庶子・藩主の側室を葬る国許の廟所として年々米20俵が供されることになったとされる。内藤家の歴代当主は江戸の光台院(東京都港区高輪)を葬地としているが、最後の藩主であった文成が明治34年に挙母の別邸で亡くなると、歴代当主としてはじめて本墓所に葬られた(6号墓)。墓所は洞泉寺本堂の真裏(北側)の緩い尾根筋を断ち割って造営され、東西方向に長い長方形の敷地(南北約5m、東西21m)に墓塔7基が一列に並んでいる(写真:手前6号墓)。敷地の周囲には幅2~3m、高さ1.5mほどの土塁が巡り、敷地南側の土塁は2か所で途切れ、出入口となっている。便宜的に西から1~7号墓と呼称し、没後ただちに墓塔が設けられたと仮定すると、1号墓→3号墓→5号墓→4号墓→2号墓→6号墓→7号墓の順に造営されたことになる。ただし最も造営年代が古い1号墓は、藩主内藤政峻の在任中(1794~1813)に川井家の墓地から本墓所に改葬されたことが知られ、本墓所に最初に造営された墓は3号墓とみられる。墓塔はいずれも花崗岩製で、墓塔の形式は、1~5号墓が笠付型墓塔で、笠の形状が唐破風付方形造(1~3号墓)のものと、寄棟造のもの(4~5号墓)とがある。6・7号墓は笠が付かない柱状型墓塔である。これらを年代的に整理すると、おおむね藩政期には笠付型墓塔、明治期には柱状型墓塔が採用されたことになる。墓所は平成17(2005)年3月に市指定史跡となった。


『新修豊田市史』関係箇所:3巻141ページ、20巻68ページ、9号43ページ