挙母藩藩制改革

 

(ころもはんはんせいかいかく)

【近世】

挙母藩が、明治2(1869)年から同3年にかけて新政府の方針に従い実施した職制や禄制などの改革。新政府は、版籍奉還と同じ明治2年6月に、諸藩に対し11か条にわたる諸務変革を指示したが、7月には「職員令」を布告し、知事以下の藩の職員を府県と同じものとするよう命じた。版籍奉還に伴い挙母藩知事に任じられた内藤文成は、同年7月に挙母へ帰藩し、挙母藩は10月から11月にかけて、公廨所の設置、藩知事の下に大参事・権大参事・少参事・権少参事・庶務頭取・庶務を置き人員を削減する職制改革や、知行取の禄高の削減と官禄を月給制へ移行する禄制の改革を行った。藩制改革の結果、藩内の分裂と対立を生むこととなり、大参事川西分八と川西徳化、権大参事田中正幅ら藩政を主導したグループと、竹村簡斎を中心に藩政に不満を持つ者たちが結成した正学党との対立が激化し、同3年4月には川西徳化が藩政不行き届きを理由に辞任願いを提出する事態にまで至っている(正学党事件)。また、藩内の情勢が緊張したものとなった結果、同年6月には、兵卒が指令石井吉郎を殺害する事件も発生している。明治3年9月、新政府は「藩制」を布告したが、挙母藩は11月になると、大属・権大属・少属・権少属・史生といった「藩制」に対応する職制を定め、戸籍・字養課・会計課・学校課という分課を設け、家格と家禄の再改正も行っている。その後、挙母藩は、同年12月に、挙母県と改称することを新政府に願い出て、翌年には学問研究のための藩知事の東京滞在や、挙母県と改称すること、官員の減少、郷校の建設、士卒の帰田(帰農)と授産などを定めた「挙母藩改制法」を作成し、同年6月には、士卒の帰田を推奨するための規則を定めている。同4年7月14日、新政府は廃藩置県を実施しているが、この時挙母藩も廃止され挙母県となり、内藤文成も藩知事を免官されている。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻757・772ページ