(ころもぶんかきょうかい)
【現代】
昭和21(1946)年1月に発足した当時の挙母町とその周辺の文化活動を牽引した団体。その端緒はアジア・太平洋戦争以前にまでさかのぼることができる。この時期、キリスト教に触れた矢頭琴治や長坂貞一らは、その経験から人間生活を高め、新しい価値を生み出していくものとして「文化」を意識するようになり、彼らを中心に合唱活動が始められ、レコード鑑賞会が開かれた。昭和19年頃には本格的な合唱団として挙母合唱団が組織され、戦後には挙母文化クラブが結成された。挙母文化クラブは教育委員会の文化担当のような役割を果たし、昭和21年1月に改称して挙母文化協会となった。当初500人の会員を擁した挙母文化協会は市川房枝(婦人運動家)の講演会や加藤唐九郎(陶芸家)による美術講座、社会教育講座や演劇部研究会、音楽会などを開催し、舞踊、琴、長唄の会なども主催して活発に活動した。昭和24年1月には雑誌『挙母文化』を創刊し、その中で会長の矢頭は「郷土文化高揚のために精進」することを誓っている。挙母文化協会のような文化組織や文化団体は戦後の2、3年間は全国的な高揚をみせたが、この頃にはすでに消滅や衰退が伝えられるようになっており、挙母文化協会も、産業の復興や戦中に市域に居を構えて活動を展開していた加藤をはじめ河村喜太郎(陶芸家)、我妻碧宇(日本画家)といった一流の文化人が本来の活動の舞台に戻っていく中で、退潮を余儀なくされた。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻138ページ