混住化 

 

(こんじゅうか)

【現代】

高度経済成長期における全国からの勤労青少年の流入によって、豊田市は混住化が急速に進んだ。混住化の影響を最も受けたのは行政区である。例えば市内最大の東山団地を含む東山町行政区(美里地区)では、昭和46(1971)年10月現在、県営住宅、市営住宅、公団住宅等に3010人が住んでいたが、そのほとんどが全国各地から集まってきており九州弁や東北弁などの方言が飛び交っていたという。核家族を中心とする若い行政区であり、自治組織として婦人会、子供会、老人クラブなどが活発に活動し、家族運動会、盆踊り大会、東山まつりの三大行事で区を盛り上げる取り組みを毎年実施していた。その一方で新旧住民の融和が図られる行政区もあった。例えば永覚新町行政区(末野原地区)は昭和47年4月に永覚町から独立した。昭和25年頃は25戸しか世帯がなく、しかもすべて茶、イモ、ダイコンを生産する農家であった。ところが昭和40年から宅地開発が始まる。アパートが畑地に次々と建設された結果、旧来からの4集落と併せて世帯数は2000を数えるまでに膨張した。町が独立する以前よりアパートの自治会からの申し出で祭り(餅投げ、くじ引き等)は新旧住民が一緒に行っており、夏の盆踊りもアパート内の広場を利用したり、児童館の公園の清掃管理も共同で行ったり、月1回の話し合いをもったりするなど積極的に融和を進めていた。同じく末野原地区の大林行政区では人口4781人(昭和46年10月現在)のうち寮生が77%も占めていたため、特に婦人会が寮生との対話を推し進め、懇談会、激励会、盆踊り等に加え寮生の衣類の繕い物を実施するなど日常の交流を進めていた。ただし融和がうまく進んだ地域ばかりではない。ある行政区では急速な宅地開発によって風景が一変し、自分勝手な苦情を持ち込む利己的な住民も増えていると区長が嘆いていた。そのため行政区(自治区)の自治活動の重要性が一層高まっていくのである。

『新修豊田市史』関係箇所:5巻190ページ

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