(こんれいいしょう)
【民俗】〈衣生活〉
花婿の婚礼衣装としては、平野部では昭和20年代まで、山間部では昭和30年代まで黒紋付羽織袴の着用が多くみられた。太平洋戦争中は倹約が叫ばれ、国民服の着用が流行しており、婚礼でも着用されたようである。花婿の婚礼衣装は早くから洋装化しており、昭和20年代になると三つ揃い(背広、チョッキ、ズボン)、昭和30年代にはモーニング姿もみられるようになった。花嫁は、もとは黒紋付き裾模様の留袖に丸帯を着用するのが普通で、平野部では昭和20年代まで、山間部では昭和30年代まで留袖が着用された。中振袖は戦前、戦後に着用された例があり、さらに昭和24(1949)年頃になると、振袖を着用する花嫁も現れた。平野部に比べ、山間部の方が中振袖や振袖の着用時期は遅れたようである。留袖や振袖の地色は黒地が多かったが、紫地縮緬も好まれた。その後、昭和35年頃から振袖から打掛姿への変化がみられた。昭和35年に足助地区から石野に嫁入りした話者は、黒地の着物に白い打掛を羽織ったといい、同年に小原地区から猿投地区に嫁入りした話者も打掛を着用している。昭和20年代までは、花嫁衣装を自前で新調した人は少なく、衣装のほとんどが姉や母親、親戚、仲人などから借りたものだった。自転車で行商に来た古着屋から留袖を買ったという話者もある。婦人会や農協が貸衣装事業を始めると、これを利用した話者もあった。昭和28年以降は、ほとんどの話者が何らかの貸衣装を利用するようになり、振袖を新調したという人は少ない。昭和30年代の高度経済成長期に入ると経済状況が好転し、婚礼の途中で色直しとして衣装を着替える例が登場する。昭和32年に上国谷(足助地区)から坂上(松平地区)へ嫁いだ話者は、着物を3回替え、初めは黒五つ紋付裾模様の振袖で袋帯、2回目は紫の無地の訪問着に名古屋帯、3回目は菊の柄が上にいくほど小さくデザインされた訪問着で、名古屋帯を締めたという。〈衣生活〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻240ページ、16巻239ページ、17巻470ページ