斎木環  生没年未詳 

 

(さいきたまき)

【近代】

在府の挙母藩重臣斎木斎の嫡男として生まれ、江戸藩邸で藩儒岸田吟香の門に入り文学を修めた。藩校崇化館の系譜を引く皇道寮の筆道大教授。藩内においては断髪廃刀を主唱。岸田吟香に招かれて『東京日日新聞』の編集を補佐したとされる。斎木貴彦と名乗り、明治8(1875)年にはブラックの後任として『日新真事誌』編集者、翌9年には『めさまし』編集長となり、新聞規制法の弾圧に対抗するため浅草で開催された新聞供養大施餓鬼に参加している。明治10 年には『小学図解人身問対』という教育書を刊行するとともに、『新潟新聞』の初代編集長に迎えられた。新潟においては、知識人として健筆を振るうとともに、県内士族や豪農らと「言志会」を結成し、民権や地方自治などを論じた。