(ざいごうまちば)
【近世】
宿場や港、門前町のように、行政上は村ではあるが、百姓を中心とする農業生産が主体の村とは異なる都市的な性格を帯びた「町場」のこと。市域の在郷町は、交通路の要衝に位置し、地域経済の拠点であった。中世の足助氏の領地から始まる足助は西三河を代表する在郷町場であり、矢作川・巴川舟運と接続する伊那街道の荷駄中継を担い、尾張・三河・信濃からの物流の結節点として繁栄をみせた。同じく伊那街道沿いに位置する武節町・稲橋は、荷物の人馬継立を行っていたほか、馬稼ぎの者や商人に対する宿を提供しており、造り酒屋もみられた。矢作川右岸に位置する越戸は、矢作川舟運の上限にあたる越戸土場があり、四郷を経て伊那街道へ荷物が運搬された。また、矢作川西岸の山間部の村々の年貢米の集積地であり、美濃国からの荷物も運ばれ、商人が集まる在郷町であった。足助街道沿いに位置し、巴川左岸に位置する九久平は、対岸の平古土場とともに、巴川舟運の上限に位置する九久平土場があり、割木など材木類の集積地として賑わった。薪商売以外にも、味噌や塩の小売りをする者もおり、弘化3(1846)年には米会所開設の願書が出されるなど、商業が発達していた。伊那街道沿いに位置し、挙母城下町から飯野村・大坂村を経由して美濃国岩村にいたる岩村街道が交差していた四郷は、造り酒屋や水車稼ぎがみられた。挙母村の北隣にある梅ヶ坪村は、岩村街道沿いにあり、船問屋や穀類を扱う商人がみられた。また、梅ヶ坪村絵図(写真:左が北)には村内を通る岩村街道に沿って北から中町、永明町、風呂屋町、下町などの地名が描かれており、町場として意識されていた。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻197ページ
→ 足助村