財産区

 

(ざいさんく)

【現代】

江戸時代の民有林にあっては、村全体で林野を活用保護するケースがみられ、天然林や一部育成林の保護をして、構成員の住宅や、薪炭の材料などに利用してきた。しかし、明治に入り、村々が合併して新たな行政村が誕生する過程で、合併する際に差し出すべきとされた、村々が所有する林野に差があり、それまで広く共同で手入れをしてきた林野を管理してきた村は、新しく合併する村にその林野を提供することを好まず、合併を拒むケースが出てきた。そこで政府はそのような林野を「財産区」として設定することを認め、従来通りの特定の村の所有に帰属させた。それによって明治期の町村合併はスムーズに進行し、明治の行政村に至ったケースも多かった。そのため、財産区を認められた村は、その後も構成員たちが森林の植栽や育林、保護を共同作業で行い、それを独自に組織化して林野を管理することができ、育て上げた育成林や林産物などを売却して、自分の村の公共的な投資に充てた。学校建築、道路改修や舗装、修学旅行費補助などがそれで、長年の共同作業による育林からの果実の享受であった。いくつかの条件によって上手くいくケースでは、今日においても存続する山間地域の共同体の存立基盤になっている。市域でも、この財産区は奥地に多く存続してきたが、平成の市町村合併時に山間地域のこのようなシステムに不慣れな新行政側からその存否について議論となった。山村のシステムの歴史的な相違についての理解の違いが表面化したケースといえる。

『新修豊田市史』関係箇所:5巻742ページ