(さいほう)
【民俗】〈衣生活〉
戦後に既製服が普及するまで、裁縫は女性の重要な仕事であった。女性は冬期や雨天の日に着物を繕い、仕立て直しもした。モンペやモモヒキは膝の部分から破れるので、ツギを当てて繕った。各家庭にはモモヒキ、モンペ、足袋の型があった。動きの激しい子どもなどは足袋を2、3日で破いてしまうので、毎晩繕う必要があった。裁縫技術の習得は女性に必須の項目だった。裁縫は小学生からはじめ、嫁入りまでに一通りの技術を身につけた。小学校では家事・裁縫の授業があり、自宅では母親や祖母からも学ぶことができたが、多くの女子は農閑期を利用して、オハリ(オハリコ)に通った。寺のお庫裏さんや裁縫の上手な人のもとに通う場合が多かったが、少し離れた町にある和裁教室に冬期のみ住み込んで習う人もあった。通学期間は1年から3年間ぐらいで授業料はなく、盆・正月になんらかのお礼をした。小規模な教室では、教材として持参した反物や手持ちの着物をほどいて縫った。お勝手の手伝い、掃除や布団の上げ下ろし、風呂の水汲みなどの家事をこなせば裁縫を教えてもらえ、木綿や銘仙を使って長着や羽織の仕立て方を習った。岡崎や足助、名古屋などにある比較的規模の大きい裁縫所では顧客の注文を受けており、生徒はこの工程の一部分を任された。簡単なものから難しいものへと、技術の習熟度に応じて担当する部分が変化した。まず運針を習い、次に外からみえない簡単な部分を縫った。単衣の袖から始めて、袷、紬の長着、留袖、帯、男物などを縫い、2年間ぐらい修業した。上達すると、結婚の際には自分の留袖や訪問着、喪服、帯などを縫うこともできた。結婚後は、常には家族の普段着、浴衣、ウールのアンサンブルや絣の着物などを縫い、上等のものは呉服屋で仕立ててもらった。上手な人は近所からの注文を受け、家計を助けることもできた。戦後は洋装が増え、洋裁教室の数も増加したため洋裁を習う話者が多くなった。〈衣生活〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻282ページ、16巻275ページ