酒井忠尚  生没年未詳

 

(さかいただよし)

【古代・中世】

16世紀半ばの三河上野城(上郷町)の城主。初名を忠賀と伝え、名乗り字としての賀と尚に共通の読みとして「よし」があるので、「ただよし」と称したと考えられる。系図史料などでは酒井左衛門尉忠善の子とも兄ともいう。はじめ左衛門尉を名乗ったらしいが、弘治3(1557)年の文書では将監を名乗っており、「松平記」などの史書では酒井将監と記される。松平清康以来の岡崎松平家に従った。天文9(1540)年の松平広忠執政開始とともに阿部大蔵が岡崎松平家中の実権を握ると、これに反発して織田信秀を頼んで広忠に敵対した。天文18年に今川氏が三河織田勢力掃討作戦を展開した際に上野城を攻撃されて降伏し、上野城主のまま今川に服属したらしいが、弘治元年以降に三河各地で今川氏への反乱が頻発すると、この流れに加わった。しかし弘治2年、今川氏の買収工作に応じて再度今川に従った。弘治3年の文書では岡崎松平家岡崎奉行衆7人の一人として署判しており、今川氏配下の三河において、岡崎領(岡崎松平家旧領)の統治に関与している。同4年2月に寺部城(寺部町)の鈴木日向守の反乱を今川方が攻めた際のことを記した文書には「岡崎并上野人数」と記され(「人数」は軍勢の意味。にんじゅ)、岡崎城の軍勢とは独立した軍事編成をもつ国衆としての地位を認められていた。桶狭間の戦い後に松平元康(徳川家康)が岡崎城において統治を開始すると、これに従っていたらしいが、永禄6(1563)年に本願寺派坊主・門徒と西三河国衆を結ぶ広汎な反家康一揆(三河一向一揆)が形成されると、その有力な一翼となった。坊主衆と家康の和睦がなった後も上野城に籠って抵抗を続けていたが、家康の攻撃を受けて同7年9月に開城した。その前後に今川氏を頼って駿河に脱した。その子孫の伝えるところでは駿河で没したという。子孫は、御三家の一つ紀州徳川家創設に際して出仕がかない、和歌山藩士となった。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻525・579ページ

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