鷺蔵池 

 

(さぎぞういけ)

【近世】

天和元(1681)年上野村と里村で帰属が争われた用水池。幕府の裁許により上野村所属となった。明和4(1767)年の豪雨により釜土池の堤が決壊し、その土砂が鷺蔵池にも流れ込んだ。浅くなった池は田畑新開の対象となったものの、天和元年の幕府裁許でこの池の新開を禁じていることを理由に実現しなかった。鷺蔵池の水は里村の八幡池へも流れているため、鷺蔵池は保たれる必要があったのである。粟寺新郷では用水路の維持のため溝浚えを行っていたが、あげた土のために池の下流側が高くなり、池周りの田や道に悪影響が出た。天明8(1788)年堤を低くする工事を行った結果、隣村里村をはじめ猿渡川下流の村々に大雨の余水が流れ込み、その一方で里村の八幡池は水が減少してしまった。寛政3(1791)年刈谷領13か村と上野11か村で堤の高さを取り決め、6か所に定杭を建てた。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻249ページ、8巻157ページ