佐藤清臣  1833~1910

 

(さとうきよおみ)

【近代】

国学者、志士、神官であり、三浦秀波とも称した。天保4(1833)年4月6日、美濃国大垣新田藩(のちの野村藩)の藩士の家に生まれる。長じて佐藤信淵には農政学を学び、平田派国学の門人となって国学の研鑽に努めただけではなく、柔剣道にも造詣が深かった。幕末には相良総三が率いる赤報隊に参加して、相良亡き後は諸国を遍歴したという。明治5(1872)年、設楽郡稲橋村の豪農だった古橋源六郎暉皃の下へと身を寄せ、同地の郷学校「明月清風校」の教員として取り立てられた。その後、稲橋村の郷村振興事業に尽力した古橋の支えとなっただけではなく、皇学の学舎「真澄舎」も主宰している。明治43年没、享年78歳。


『新修豊田市史』関係箇所:4巻104・128・349ページ

→ 古橋暉皃明月清風校