猿投合属 

 

(さなげがっしゅく)

【民俗】〈祭礼・芸能〉

猿投神社の祭礼に際し、西三河・尾張東部の村が連合し、昼夜を問わず飾り馬を奉納した行事。尾三国境の猿投山に鎮座する猿投神社は、三河三宮にも列せられた古社で、例祭は旧暦9月8日・9日であった。9日が重陽の節供であったため「節供祭り」とも呼ばれた。祭りに献馬をする村は猿投、広沢、山下、小原、川通、高岡、四郷、宮口、寺部、北尾張、南尾張、東美濃の12の連合(合属)に分かれ、これと流鏑馬奉納村1つとで祭事を行った。その村数は最盛期には186か村に及んだというが、毎回すべての地域が参加したわけではない。猿投合属の由来は定かでないが、南尾張合属の岩崎村(日進市)の「猿投祭禮記録」に、同村が天文22(1553)年に献馬して以降、村数が増えたとある。また、尾張藩士の高力猿猴庵は『尾張年中行事絵抄』に、雨乞いが元で元禄(1688~1704)の頃から始まったと記している。猿投祭りは騒動が多いことから「しのぎ祭り」「喧嘩祭り」とも称され、よその村の飾り馬が装着する標具を奪い合うことも行われた。そのため、警固のための鉄砲隊や棒の手隊が加わって大規模な隊列が編成されるようになり、厳しい決まりも作られた。それぞれの合属のムラは、猿投神社までの道中、その都度、厳粛な出合の挨拶を繰り返して合流し、隊列は次第に膨れあがった。猿投神社では、本宮社殿前の四方殿に本宮、東宮、西宮の3基の神輿が出御しており、各村が飾り馬を奉納した。明治新政権になると神仏分離の影響だけでなく、武具を伴う祭礼が農民一揆につながる恐れもあり、太政官や愛知県によって馬の塔(頭)や棒の手が禁じられ、猿投合属も中止を余儀なくされた。その後、復活し、現在は10月第2土・日曜日に祭礼が行われているが、規模は大幅に縮小され、猿投地区だけの行事となっている。なお、猿投合属と同様の行事は尾張の熱田神宮や龍泉寺などでも行われ、合宿、加宿と称していた。〈祭礼・芸能〉

『新修豊田市史』関係箇所:17巻327ページ

→ 飾り馬警固祭り猿投社(猿投神社)棒の手