(さなげじんじゃのかんぜき)
【典籍】
漢籍とは、日本に伝来して書写享受された中国古典籍の総称である。律令制施行以来、朝廷は政治と文化のすべてにわたり、漢文を公的な書記言語とし、貴族官人は漢文リテラシーと漢詩文の作文さくもん能力を「才学」として重んじた。『文選』を伝えたとされる吉備真備など遣唐使により将来された漢籍は3万点以上と伝えられ、その概要は『日本国見在書目録』に挙げられる。古代中世から江戸時代まで、日本の知的基盤は一貫して漢籍が支えていたのである。中国では宋代以降、刊本が文化の主流を占め、「旧鈔本」「逸存書」と呼ばれるそれ以前の写本はほとんど喪われた。しかし日本では写本文化が永く続き、朝廷でも旧鈔本によって古典が読み伝えられた。猿投神社に伝わる鎌倉から南北朝にかけての漢籍写本は、神宮寺の僧侶の古典学習のために用いられた書物だが、その大半がこうした旧鈔本であることが特色であり、貴重な価値を有する。全8点のうち、これだけが独立して国の文化財に指定される『古文孝経』は、まさに逸存書の典型であるが、また、歴代天皇の待読として経書けいしょの教授を担った清原家の訓みを忠実に伝える、帝王教育のテクストが、中世初頭には美濃・三河の寺院に伝わっていたことが注目される。同様に、鎌倉時代の清原家の許で、宋人呉三郎が筆写に携わった『史記集解』や『春秋経伝集解』(集解とは古法を集めて本文とともに参照できるようにしたもの、日本では多くこの集解の形で流通した)が伝えられることも、漢籍と介した中国と日本、中央と地方の交流の証しである。その好例が、唐太宗『帝範』と武則天の『臣軌』一具である。これも中国では亡佚した本が日本で帝王教育に用いられて伝わり、しかも猿投本はその奥書により鎌倉の武士が因幡国より伝えたことが知られる。おそらく金沢文庫の本が地方に流布したもので、当時の全国的な学問と典範の展開の状況を示す写本である。これを写した僧実融が住した三河の長仙寺では、南北朝期に『論語集解』が写され、また『白氏文集』も写される。この頃には猿投神社自体も漢籍の学習と書写の場となっており、『文集』のうち「新楽府」が社僧によって児童の教育のテクストのために写されている。それは神宮寺が最も繁栄した時代であり、漢文古典の規範を示す『文選』巻一の最古写本である弘安本や正安本も、この頃にもたらされたのであろう。
『新修豊田市史』関係箇所:特別号8・18・25ページ