猿投神社の聖教

 

(さなげじんじゃのしょうぎょう)

【典籍】

猿投神社の神宮寺であった白鳳寺は明治維新の際に廃寺となったが、中世には天台・真言を中心に諸宗を兼学する顕密一山寺院として繁栄した。一山を構成する諸坊には法流を継承する学僧の許で、地域有力者の子弟が和漢の書を学び、修正会や八講会など仏神事を執行する寺僧は経典を講じ儀礼を営んだ。寺院はこうした社会的機能を果たすために、大般若経をはじめとする経典だけでなく膨大な宗教テクストを写し伝え、作成し蓄えていた。その総称を聖教と呼ぶ。論議問答による経典の注釈と修法祈禱のための次第法則など、教相と事相の分野が中心を成すが、秘密の教えを相伝する文書形式の印信や秘伝書、法会で読みあげる講式など多彩である。寺が廃されたのちも、神社や旧坊の家々に漢籍など古典籍とともに多くの聖教が残され、愛知県史編さん事業によって断簡となった分も含めその全貌が目録化された(『豊田史料叢書 猿投神社聖教典籍目録』2005年)。南都の法相から天台・真言の教学と修法の諸尊法、浄土教や説法の草案まで、幅広い内容を示すが、神仏習合の拠点であったためか、神祇に関する秘伝や、尾張で活動した無住の著作を含むように、その聖教の構成は、国宝『古事記』で知られる名古屋市の大須観音真福寺の蔵書と共通した体系を示している。

『新修豊田市史』関係箇所:特別号65ページ

→ 『結縁灌頂三昧耶戒作法』血脈相承図、『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』、猿投神社縁起『生死本源経』『貞和五年年中祭礼記』『年中行事』法華八講法則類