猿投神社の仏像

 

(さなげじんじゃのぶつぞう)

【美術・工芸】

猿投神社には、白鳳寺という神宮寺があり、境内には本地堂、護摩堂、三重塔などが建っていたが、嘉永6(1853)年にすべて焼失した。当時提出された「出火助成出願一件」によれば、「本地堂、諸堂本尊」は救出された。しかし、寺の復興は進まず、護摩堂は再建されたものの明治元(1868)年に神仏分離のために取り壊され、諸堂や塔頭の仏像類は千洗の観音寺に預けられた。その観音寺も明治5年に火災で焼失したため、仏像の多くは猿投の摂取院を経て猿投神社の東北隅にある山中観音堂に戻されて現在に至る(それらの経緯については太田正弘編『猿投神社近世資料』正・続 1987年・1989年による)。山中観音堂は嘉永6年の火災と明治時代の廃仏毀釈を免れた唯一の仏堂で、本尊千手観音菩薩立像と両脇侍の毘沙門天立像・不動明王立像のほか、不動明王立像、釈迦如来坐像(貞治3〈1364〉年)、阿弥陀如来坐像(慶長3〈1598〉年)、弘法大師坐像などがある。これらの仏像の中には本地堂や三重塔の仏像も含まれている可能性があり、中でも、2体の不動明王立像のうち1体は旧護摩堂の本尊と推定される。また、市内の寺や個人宅に、猿投山上にあった東宮の薬師堂伝来とされる薬師如来坐像、十二神将像、西宮の観音堂伝来とされる聖観音立像、毘沙門天立像が伝えられている。

『新修豊田市史』関係箇所:21巻118ページ

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