猿投神社本殿・拝殿・祭文殿・四方殿・祝詞殿・中門・廻廊・太鼓殿・総門・摂社

 

(さなげじんじゃほんでん・はいでん・さいもんでん・しほうでん・のりとでん・ちゅうもん・かいろう・たいこでん・そうもん・せっしゃ)

【建築】

猿投町(猿投地区)。康保4(967)年の延喜式神明帳には「狭投神社」とあり、平安時代後半には遷宮による社殿ならびに神宮寺の造営が行われ、鎌倉から室町時代には本殿、拝殿、廻廊、四方殿などに加えて三重塔、神宮寺、観音堂、僧坊等が建てられた。また、一宮制により砥鹿神社、知立神社に次いで三河三ノ宮とも称され、神仏習合と重ねて信仰を集めた。近世には藩の保護を受けるが、嘉永6(1853)年の火災により、神輿殿等を除いて主要社殿を焼失し、安政3(1856)年以降に再建された社殿が残され、現在本殿、祝詞殿、中門、廻廊、四方殿、拝殿、太鼓殿、神輿殿、総門、摂社などを残す。境内は、主要社殿が南北中軸線上に一列に並び、境内前方に鳥居、参道前面に総門が置かれ、総門(大門)を潜って進むと、後方に拝殿、四方殿、中門が並び、中門両脇に廻廊が付き、中門の奥に祝詞殿、本殿が並び、拝殿の西側前方には社務所が置かれ、拝殿の東方に太鼓楼が建っている。建立年代は、本殿が明治13(1880)年、中門・廻廊が安政年間(1854~60)、拝殿が明治26年、四方殿・太鼓楼が安政3年であり、昭和40(1965)年に本殿を北奥に移し、中門と本殿の間に祝詞殿を建設した。本殿は、桁行3間、梁間2間、切妻造、桧皮葺、神明造とする。間取りは、身舎周囲に刎高欄付の濡縁を廻らし、前面中央に木階を設ける。身舎は、総丸柱とし、縁長押を廻らし、内法には貫を通し、正面3間では柱間を開放し、両側背面を板壁とする。柱上は斗栱を用いず、梁行に角梁を渡し、その上に軒桁を井桁に組み、両妻では柱上の角梁に猪子扠首を組み、破風に鞭懸を打ち、この両脇に棟持柱を立てる。軒は一軒半繁垂木・木舞打ちとする。屋根には両端に千木を組み、大棟に堅魚木を載せ、甍覆をみせる。この本殿は、正面柱間を開放し、前面柱列を3尺半ほど入り込ませ、柱間に柵列を設け、棟持柱を身舎柱より細くし、全体に建ちの高い建物とし、形式の翻案が認められる。祝詞殿(祈祷殿)は、桁行6間、梁間3間、切妻造、銅板葺、妻入の大型の社殿である。柱は総丸柱とする。妻正面は、中央柱間では木階を出し、敷居、挿し鴨居を通し、両引き格子戸を立て入口とし、身舎柱と側柱を同高にとり、柱上に頭貫を通して大斗・舟肘木を載せ、柱頂の角梁上に束を立て、身舎桁を支える。内部は、一つの空間とし、全面に格天井を張るが、後方二間では框を通して床を上段とし、柱上は頭貫・台輪を通して平三斗をみせる。この社殿は、本殿に合わせて建ちの高い建物とする。拝殿(写真)は、桁行5間、梁間3間、切妻造、銅板葺、妻入の大型の社殿である。平面は中央の身舎部分、両脇の両庇部分の3つの空間からなり、周囲に擬宝珠高欄付の濡縁を廻らす。妻正面は参拝のために木階を付ける。柱は身舎柱を丸柱とし、側柱を面取角柱とし、身舎柱を高く伸ばし、柱間をすべて開放する。両妻は、中央間では縁長押、無目敷居を通し、上部に大虹梁を渡し、柱上には出三斗を載せ、軒桁を結ぶ角梁を渡し、梁上の叉首で化粧棟木を支える。妻には大きな破風をみせ、蕪懸魚・鰭付を吊る。内部は、身舎部分では床を敷居一段高め、身舎柱間に無目敷居を渡し、鴨居・内法長押を通して下を開放し、柱上に舟肘木を載せ、格天井を張り、庇部分では化粧屋根裏をみせ、床を全面板張りとする。四方殿は、桁行1間、梁間1間、切妻造、銅板葺、妻入とする。柱は、丸柱とし、柱間を開放し、床板を張り、周囲に濡縁を廻らし、柱間には無目敷居を渡し、柱上に大虹梁を渡している。柱頂には出組・拳鼻付を置き、中備は詰組とし、周囲に支輪をめぐらす。妻では二重虹梁・大瓶束を組み、大瓶束の両脇に笈形を付け、化粧棟木を支える。中門は、四脚門形式、切妻造、銅板葺、向唐破風付、平入、床板張りとする。柱は主柱を丸柱、控柱を角柱とし、主柱間では方立を立て、内法に冠木長押、付鴨居を渡し、両開き格子扉を吊り、格天井を張る。妻面の控柱間では、斗栱上に妻梁を渡して軒桁と組み、妻梁上に扠首組をおき、化粧棟木を支える。中門両脇には、西側に桁行5間、梁間2間、東側に桁行5間、梁間2間、切妻造、桟瓦葺の廻廊を設け、座敷や収納庫として使われる。太鼓殿は、桁行1間、梁間1間、楼閣形式、入母屋造、桟瓦葺とする。下層は八角柱を4本立て、柱間に腰貫、内法貫を通し、頭貫位置に腰組みを造る。上層は刎高欄付濡縁を廻らし、4本の丸柱を立て、柱間に無目敷居、虹梁を渡し、柱上に出三斗を置き、妻の破風に蕪懸魚を吊る。神輿殿は、桁行3間、梁間2間、切妻造、桟瓦葺、平入、前庇付きとする。柱は総角柱とし、前庇では4本の柱を立てて土庇とし、木階を身舎に直接取り付け、柱上では軒桁と身舎柱を角梁で繋ぎ、化粧屋根裏をみせる。身舎前面は、各柱間に格子戸(半蔀)を下半に入れて上半を開放とし、身舎両側背面では簓子下見板張りのように扱う。内部は、四尺ほどの高さに板床を張り、内部を一つの空間とする。総門は、総丸柱、切妻造、銅板葺の大型の四脚門である。主柱を太い丸柱とし、柱間に蹴放し、方立を付け、上部に冠木長押を通すが、扉は吊ってない。両妻では腰貫、頭貫を通し、上に束を立て化粧棟木を支え、軒に二軒疎垂木をみせる。屋根上部には千木を延ばし、大棟に勝男木を並べる。摂社は、祝詞殿と本殿の東側に敷地を広げ、西から熱田社、寒神社、八柱社、大国社の四社を横一列に並べる。いずれも、新しい建物であるが、八柱社は幕末から明治期の本殿であり、一間社流造、銅板葺であり、最も大きな摂社である。また、江戸時代まで神仏習合の建物であった山中観音堂が境内脇に祀られている。猿投神社の現社殿は安政から明治年間に再建された建物が多く、近世から近代への転換期に造営された社殿として貴重な建築群である。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻210ページ

→ 猿投神社観音堂(山中観音堂)