猿投ダンプ事故

 

(さなげダンプじこ)

【現代】

豊田市内の自動車の増加をみると、昭和31(1956)年には209台だった乗用車が、昭和48年には約5万3000 台と、およそ260倍にもなっている。自動車数の増加は、交通事故の増加につながり、昭和36年の事故件数381件に対して、昭和48年には2608件と約7倍になっている。交通事故による死者数は、自動車数とは比例せず、昭和36年から48年までの間、年によって14人から53人まで(豊田警察署管内データ)のバラツキがあるものの、大きな問題となっていた。こうした中、象徴的な事故が起きた。猿投ダンプ事故である。昭和41年12月15日午前8時50分頃、越戸町(猿投地区)の国道153号で、保母に引率されて集団登園していた越戸保育園の園児の列に、居眠り運転のダンプカーが突っ込み、保母1人を含む11人が死亡、22人が重軽傷を負った。この事故は全国に報道されて大きな衝撃を与えた。国会でも取り上げられ、昭和42年8月に公布された「ダンプ規制法」成立の要因となった。この事故を契機に、国、県、市は交通事故防止に立ち向かうことになった。豊田市では事故の翌年2月に最初の横断歩道橋が下市場町(挙母地区)地内に完成、3月末までに全部で4か所完成した。猿投ダンプ事故の現場となった越戸保育所前の国道153号には、当時の建設省が特別緊急事業として建設をすすめていた横断歩道橋が4月8日に完成し、市長や園児らが渡り初めを行った(写真)。このほかに道路照明、反射鏡、ガードレール、視線誘導標、道路標識、歩道の設置などがこれまでとは異なるスピードで整備された。交通規制の強化も昭和44年頃からはじまり、昭和45年になると道路の狭い挙母地区の昭和・竹生・喜多・西・神明・元城などの各町で一方通行と駐車禁止が全面的に採り入れられた。市街地とその周辺のほとんどで最高速度が40kmとなり、大型車通行禁止、車両通行禁止区間も設定された。昭和46年から4つの小学校区でスクールゾーン交通規制が設定され、翌年にはすべての小学校区に拡大された。昭和47年11月には豊田市駅周辺にユニット規制が設定された。ユニット規制は、歩行者保護を最重点に速度制限、車両通行禁止、一方通行、駐車禁止、右折禁止、スクランブル交差点、ワイド横断歩道、信号機設置などの交通規制を集中的に組み合わせて行うものである。一方で交通事故防止には市民のモラルの向上が必要であり、従来から実施されてきた全国一斉交通安全週間にも一層力をいれることになった。昭和42年5月にはママさん交通指導員が誕生、また従来から交通安全運動を展開してきた豊田市婦人交通安全会が、第8回全国民総ぐるみ運動中央大会で表彰を受けた。47年4月には交通安全市民総決起大会が開催され、以後毎年開催され、昭和52年には57の市民団体が交通安全市民会議を結成した。豊田市は、昭和43年交通災害共済制度を発足、交通事故相談所を開設、翌44年交通安全課設置、交通遺児扶養手当支給を開始、45年市内初の交通公園が完成した。


『新修豊田市史』関係箇所:5巻180ページ