猿投町の昭和の大合併

 

(さなげちょうのしょうわのだいがっぺい)

【現代】

昭和28(1953)年4月1日に町制をしいた猿投町は西加茂郡では挙母市に次ぐ人口約1万5000人の町(昭和25年)となっていた。政府の町村合併政策によりまとめられた愛知県町村合併計画試案(昭和29年4月)では、猿投町・石野村・保見村はそれぞれ独立のまま、もしくは3か町村で合併という案が示された。3か町村とも当初、合併には積極的ではなかったが、3か町村は地勢や産業などが類似し、猿投神社の氏子圏であるなど、歴史的・社会的一体性があり、合併をするなら3か町村でという認識であった。県の指導もあり3か町村は合併を決断した。昭和29年12月8日に法定の町村合併促進協議会を設置し、12月29日の協議会で合併条件の協定・新町建設計画などを決定した。翌年の1月8日に3か町村がそれぞれの議会で「町村の廃置分合」を全員一致にて議決し、30年3月1日に新しい猿投町(人口2万1225人、面積118㎢、29年12月現在)が誕生した。合併後、役場は旧猿投町におかれ、旧石野・保見役場には東部出張所・西部出張所が設置された。出張所は、戸籍・配給等の事務と、収納・土地台帳・家屋台帳の閲覧事務を分掌し、地区住民の便宜を図った。新しい猿投町では旧町村職員をそのまま登用したが、合併前の79人から68人へと減員された。議員定数も旧3議会の総数64人から30人へ減員され、選挙は東部(定員7)、中部(定員15)、西部(定員8)の選挙区により実施された。この選挙区選挙は次の34年の選挙まで適用された。合併時に作成された新町建設計画は、時代の推移に即応して33年、38年、41年と計画の修正を行いつつ、町建設の事業を推し進めた。その中でも特に教育施設の整備と改善、保育所の拡充整備、母子センターの建設、大学・工場・ゴルフ場の誘致、土地改良の推進、簡易水道の布設等、基盤整備が積極的に進められた。

『新修豊田市史』関係箇所:5巻10ページ

→ 猿投町の豊田市との合併