(さなげちょうのとよたしとのがっぺい)
【現代】
猿投町は中山間地を多く抱え、昭和30(1955)年3月の3か町村での合併後も、農林業などを補う産業にみるべきものがなく、町内に商店街をもたず、経済的には豊田市の勢力下にあった。町財政の依存財源割合が大きく、開発事業などへの投資も充分とはいえなかった。この頃、トヨタ自動車工業株式会社は増産体制を敷き、工場を建設・計画中で多数の従業員の住居が必要になった。住宅地として工業地域と分離され、緑に囲まれた高燥な台地が好まれた。猿投町にとっては、合併して豊田市に豊かな自然や住宅適地を提供することは行政の選択肢の一つであった。猿投町は38年6月の町議会全員協議会で豊田市との合併を決定し、7月8日に町議会議長が市議会議長へ申し入れるなど、熱心に合併を働きかけた。しかし豊田市は上郷町、高岡町との合併を優先して進めていた時期であり、猿投町との合併協議は進まなかった。上郷町、高岡町との合併後の41年新春市政座談会にて、佐藤保市長は30万人都市構想の総合計画の下、55年までにさらに約4万戸の住宅を必要としており、まず猿投町との合併、次いで三好町(現みよし市)、松平町の合併も視野に入れていると語った。特に猿投町はグリーンロード、名古屋環状3号線、国鉄岡多線の計画が進み、名古屋市営地下鉄が東へ延伸される計画にあり、愛知県全体の文教地帯、観光地帯としても発展が期待されたからである。一方、猿投町で38年に愛町同志会が結成され、合併反対運動が起こった。しかしながら豊田市と上郷・高岡2町との合併後、一気に合併協議は進み、41年11月に豊田市・猿投町合併協議会を発足させ、42年4月1日、豊田市は猿投町を編入合併した。合併後には豊田市は人口で14万3486人、面積246㎢、県下でそれぞれ5番目、3番目の都市となった。また猿投支所(窓口業務事務)が設置され、力石出張所(旧石野村区域)、上伊保出張所(旧保見村区域)も配置された。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻157ページ