猿投山西南麓古窯跡群

 

(さなげやませいなんろくこようせきぐん)

【考古】

尾張と三河の国境にある猿投山(標高628.9m)の西南麓に広がる低丘陵地帯には、古墳時代中期~鎌倉時代に及ぶ1200基を超える窯跡が分布している。その範囲は、西は名古屋市東部から東は豊田市西部、北は瀬戸市・尾張旭市から南は刈谷市・豊明市・大府市までの20km四方に及び、この窯跡群を「猿投山西南麓古窯跡群」(通称、猿投窯)と総称している。藤岡地区の藤岡窯を除く市域の窯跡は、この猿投窯に属する。5世紀後半に須恵器窯としてはじまった猿投窯では、特に9世紀初頭に灰釉陶器生産を確立すると、平安時代を通して国内唯一の施釉陶器(灰釉陶器)生産地として、その製品が国内広範囲に供給されるなど、古代屈指の窯業地として栄えた。しかし中世に入ると生産の中心は、平安時代末期に猿投窯から南北に分派した知多窯(常滑窯、知多半島を中心に山茶碗・壺・甕・鉢を生産)と瀬戸窯(瀬戸市域 山茶碗・施釉陶器〔古瀬戸〕を生産)に移り、猿投窯は山茶碗を生産する一地方窯となり(中世猿投窯と呼称)、14世紀代には終焉をむかえた。その後再び窯業地となることはなく、昭和29(1954)年の本多静雄らによる発見まで、長らくその存在が忘れ去られていた。猿投窯研究では、国境・郡境に拘ることなく、窯跡の分布密度や地理的関係から、東山・岩崎・鳴海・折戸・黒笹・井ヶ谷・瀬戸の7地区に分け、窯の盛衰や製品の変遷等々の分析・研究が行われてきた。この7地区は、東山地区から時代を追って次第に広がっていった統一あるまとまりをもつものとされ、猿投窯は尾張国南部に形成された一体の古窯跡群として位置付けられてきた。三河国賀茂郡域は上記地区分けでは黒笹地区の境川以東(みよし市と豊田市挙母・保見・猿投地区)が、同碧海郡域は井ヶ谷地区(刈谷市と豊田市高岡・上郷地区)が該当する。旧賀茂郡域では、6世紀中頃に須恵器生産が開始され、7世紀代にかけて生産が継続したが、小規模なものに留まっていた(上向イ田古窯跡群)。奈良時代に入ると旧賀茂・碧海郡域において須恵器生産が本格化し、平安時代に入ると灰釉陶器生産に移行した。碧海郡域の窯業生産は10世紀前半(折戸53号窯式期)までで途絶し、賀茂郡域ではその後も11世紀中頃まで継続したものの保見地区の来姓古窯跡群に限られ、窯跡の面的な広がりは10世紀前半までであった。猿投窯では、11世紀末の灰釉陶器生産の終焉に伴い新たに山茶碗生産が始まったが、旧賀茂・碧海両郡域では少しの空白期間をおいて12世紀中葉(山茶碗第4型式期)に山茶碗生産が始まっている。碧海郡域では鎌倉時代初頭(同第5型式期)まで、賀茂郡域においては鎌倉時代末(同第8型式期)まで生産を継続した後、猿投窯の窯業生産は終焉をむかえた。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻97・153・445ページ

→ 灰釉陶器、上向イ田古窯(上向イ田窯)須恵器藤岡窯来姓古窯群