(さんこうじほんどう・ごまどう)
【建築】
金谷町(挙母地区)。真言宗醍醐派の準別格本山で、金谷山三光寺松鷹坊と号す。貞享元(1684)年に記された縁起書には、慶長15(1610)年に一宇を創立したとあるが、これより以前に碧海郡上野郷天當庵から移された庚申堂があり、伊保城主丹羽勘助氏次も深く信仰していたという。また、慶長8年に秋応法印を招いて開基とし、閑地院または松鷹坊と称したという。寛文2(1662)年には衣藩主三宅能登守康勝の命により茅葺の本堂と山門が建立され、天和3(1683)年に護摩堂(行者堂)が再建されたとされる。その後、貞享3年に本堂が改造され、宝永4(1707)年には瓦葺・丹塗りの本堂再建に着手し、翌5年落慶したと伝えている。本堂(写真)は、桁行3間(実長3間半)、梁間3間(実長3間半)、入母屋造、本瓦葺、1間向拝付の三間堂で、正側三方に濡縁を廻らし、亀腹上に南面して建つ。現在は堂の背面に奥行4間の角屋を増築し、ここを内々陣としている。軒は二軒繁垂木で、妻飾は虹梁大瓶束とし、破風の拝みに鰭付の猪目懸魚を吊る。柱は正側三面の側柱を粽付の面取角柱とし、柱上に出組斗栱を載せ、中備は正面中央間に蟇股、その他には撥束を置く。主屋の柱間は、正面中央間に双折桟唐戸を吊り、内にガラス戸を入れ、正面脇間に横舞良戸2本と腰付ガラス1本、側面に横舞良戸2本を引違いに入れる。主屋は前方の梁間2間を外陣、その後方1間を内陣、内陣の後方に増築された内々陣を設けている。内陣背面と外陣・内陣境には粽付円柱を2本立て、外陣・内陣境には格子を嵌め、内々陣には仏壇を構えるが、もとは内陣の後方に奥行の浅い下屋を張り出して仏壇を設けていたと推定され、奥行2間の外陣と奥行1間の内陣より構成される三間仏堂であったと考えられる。外部は全体に朱色の塗装が施され、斗栱・木鼻・手挟等も彩色されている。一方、護摩堂は本堂の南西に位置し、東を正面にして建つ。桁行3間(実長2間半)、梁間3間(実長2間半)、寄棟造、桟瓦葺、1間向拝付の小堂で、正側三方に濡縁を廻らす。軒は二軒繁垂木(向拝部分のみ一軒疎垂木)とする。主屋柱は粽付円柱で、柱上に出組を載せる。主屋の柱間は、正面中央間に虹梁を入れ、双折桟唐戸を吊る他は、漆喰壁とする。正面脇間には花頭窓を開ける。堂内は、現在は一室とされ、床に畳を敷詰めているが、当初は前方の奥行1間を外陣とし、これよりその奥2間を内陣として、外陣・内陣境に引違い建具を入れて区画されていた。また、当初の堂は現在の仏壇正面の柱筋で終わり、仏壇は背面に張り出す庇に納まっていたと推察される。現在柱間が広い側面中央間の中央にも円柱が立って柱間を2分し、その上に斗栱が載る奥行の浅い三間堂であったと考えられる。三光寺本堂と護摩堂は、いずれも若干の改造や増築はあるが、当初は内陣と外陣の2室で構成され、背面に仏壇を張り出す形式であったことが知られる。江戸時代中期の遺構であり、旧挙母城下に残る密教仏堂として貴重である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻171ページ