(さんそんもんだい)
【現代】
近代日本で、山村問題がクローズアップされたのは昭和恐慌時の東北地方で、地主小作制度がさらに広がった上に、天候異変もあり、小作農家は食糧難にあえぎ、娘の身売りさえ行われた。かつて世界に番組が輸出され人気を博したNHKの「おしん」も、舞台は東北であった。その際、山間地域の村々はもっと深刻な事態であったということで、それを表す意味で「山村」という用語が使われた。二・二六事件や満州への農民たちの集団移民はそのような状況から発生したといえる。第二次世界大戦後の農地改革は、それまでの地主小作制度の本格的な改革によって、そのような問題の多くを解決し、自作化した旧小作農民の努力で、たとえば山形県のコメの反収は日本一の生産を達成したりした。農村が都市部の住民と所得を対等にした時期でもあった。しかし、その後の大都市を中心とした工業化による経済の高度成長期を迎えると、大都市での労働力不足と賃金上昇のために、農村の若年労働力、また期間工として農家の世帯主なども農山村から大都市へ流出し、農地規模が少なく、また三八豪雪(昭和38年1月豪雪)の被害もあって、中国山地の山間村から挙家離村が始まり、廃村さえみられるようになった。そのような中で政府は農山村での人口安定のために安い労働力が存在した農山村への工業立地を進め、その安い労働力を狙い、補助金も得つつ、山村にも工業立地がみられるようになった。こうして一時は成功した政策ではあったが、企業側は、次第に上昇した労賃を避け、その後、東南アジア、次いで中国へとさらに安い労働力を求めて工場の移転を推し進めたため、日本の山村からは工場が消え、残された労働力は大都市へ吸収された。その結果、山村での人口減少が進み、過疎問題が当然のように広がっていった。それが平成の大合併を招き、その際、周辺部に位置する山村部では、旧来の行政サービスはなくなり、一気に人口を減らしたケースが多かった。ただし、通販や携帯電話の普及、道路や福祉の整備などが進み、外来者の参入もあって、少人数でも在村して村を存続させる動きもみられた。豊田市の場合、平成の大合併以前から、矢作川流域の後背地である山間部と密接な関係があり、トヨタ自動車と系列企業の発展とともに、農家の労動力は通勤労働力として雇用された。さらに、これら企業の発展の中で、労働力確保のために企業が周辺山間部へ進出立地し、そこで雇用するという、かつての農山村への工業立地化型の形態も見られるようになった。農山村の農業労働力不足で放置されがちな農地については、農業協同組合の農業会社が請負耕作を展開し、農地の維持も図り、また林地についても森林組合の協業組織によって管理が進められるように工夫されていて、農山村からの一方的な労働力の吸収にならないような動きになり、また併せて市域の山間地域全体の自然環境の保全も進めるという全国でも先駆的な試みとなっている。