塩荷

 

(しおに)

【近世】

足助は、太平洋沿岸地域と信濃国を結ぶ街道の中継点として栄えた町で、太平洋沿岸や瀬戸内海沿岸で作られた塩は主力商品の一つであった。足助に入荷される塩は、岡崎の塩座から買い入れ、矢作川を上り矢作川本流の越戸(猿投地区)・平井村古鼠土場(高橋地区)に陸揚げされ伊那街道を利用したものと、巴川の平古土場(松平地区)に陸揚げされ、足助街道を利用したもの、名古屋から伊那街道を陸路で運ばれたものがあった。矢作川・巴川から上る塩は三河国饗庭(西尾市)・大浜(碧南市)や尾張国知多半島沿岸の成岩(半田市)が生産地で、名古屋からの塩は播磨国赤穂(兵庫県赤穂市)で生産されたもので、広範囲に流通している塩であった。平古土場に陸揚げされた塩荷は、足助周辺の伊那街道沿いの村々の馬稼ぎによって運ばれており、陸路の塩荷駄賃は、嘉永4(1851)年には5俵で406文であった。また、伊那街道の名古屋から足助間の塩荷運送は、尾張国愛知郡の村々の馬稼ぎが行っていた。これらの塩は、産地により1俵の重量が異なり、苦汁(にがり)を含んで容積も変化することから、山道の運送に適するよう、足助の塩屋において、1俵7貫に改装され信濃国へと運ばれた。信州表で流通している木瓜形の俵に入れ直された塩荷は「足助塩」あるいは「足助直し」といわれた。塩屋の仲間組織については不詳であるが、塩屋には駄売問屋と小売があり、文政期から7軒の塩屋が塩荷駄売を開始し、塩荷を一円支配する問屋株を免許され、冥加銭2貫文を納めてきたとされる。幕末になると、矢作川・巴川沿いの商人たちが、岡崎の塩座による矢作橋下での塩荷改めや座銭徴収、俵直し、塩の上り荷規制などは弊害であると強く主張するようになり、明治元(1868)年10月付の九久平村(松平地区)百姓新左衛門の名による、戦国期以来の塩座の特権を廃止し、矢作川河口の平坂湊(西尾市)から巴川や矢作川の舟運を利用した塩荷の自由通行を求めた弁事御役所宛の願書写しが残っている。しかし、同3年に及んでも塩座の特権は維持されたままであった。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻210・454ページ