塩の道 

 

(しおのみち)

【民俗】〈環境〉

三河湾や伊勢湾沿岸などで生産された塩を搬送するために利用整備された街道は、市域では一般に「塩の道」と呼ばれていた。塩の道としてよく知られたのは名古屋駿河町と信州飯田を結ぶ伊那街道であった。昭和の頃までは市域南部から伊那街道に至る塩の道がいくつかあった。塩の産地、碧南の大浜から陸路を取り駒場(高岡地区)を経て四郷(猿投地区)で伊那街道に合流する道を池鯉鮒道、塩付街道、飯田街道ともいった。この道は市域西部の丘陵地を走っていて、うっそうとした薮もあり、かつて山賊が出たと伝えられている。大浜から広美(上郷地区)を経て四郷に至る道を大浜街道といった。明治の頃は、大浜塩は荷船で衣浦湾(知多湾)をさかのぼり逢妻川泉田(刈谷市)のドバ(土場、船着き場)、逢妻女川の駒場・逢妻男川の花園(高岡地区)の土場で陸揚げされ、そこから荷馬で足助へ送っていたといわれている。現在の花園公園には最近まで一本の古松があり、これを「灯明の松」といった。当時は逢妻男川の舟運では船頭たちが花園土場の位置を確認する「目当て」となる松だったという。碧南、幡豆の塩の搬送には矢作川やその支流である巴川最上流の土場まで川の塩の道があった。ここでは行き交う荷船を塩船ともいった。このほか、岡崎伝馬町・田町から陸路足助に送る塩の道に七里街道(九久平経由)などがあった。荷馬には塩問屋などから賃金が支払われたのでこれを駄賃付けというが、藤岡地区、小原地区などではコンダウマ(小荷駄馬)といった。明治期になると、馬車も活躍するようになり各地に馬車組合ができたが、第二次世界大戦後間もなくして山地にもトラックが入ってくるようになり、馬や馬車で運ばれる塩荷は昭和40年頃には山間部でも姿を消した。〈環境〉

『新修豊田市史』関係箇所:17巻247ページ