(しおはざまかまあと)
【考古】
足助地区の細田町に所在する中世瓦や山茶碗などの陶器類を焼成した12世紀末~13世紀初頭の窯。足助の中心地から北東に直線距離で約6km離れた地点にある。昭和43(1968)年に『足助町誌』編さん事業に関連して発掘調査が行われ、3基の窖窯あながまが確認された。1・2号窯の窯体長は約10mで、燃焼室と焼成室の境に分焔柱があり、1号窯の焼成室左脇には袋状の竪穴部が付属する特殊な構造となっている。1号窯を中心に多量の軒瓦(写真上:三巴文軒丸瓦 写真下:唐草文軒平瓦)や丸・平瓦が出土した。軒瓦の文様は新城市八剣神社前遺跡出土のものと同じ笵で作られているが、軒丸瓦の笵傷進行具合から塩狭間窯跡の方が古いことが確認されている。また軒平瓦は平瓦の端部を折り曲げて瓦当とする折り曲げ技法によって作られている。この同笵関係からみて、瓦は足助八幡宮境内にある宮ノ後遺跡に供給されていた可能性が高いと言える。出土瓦の構成をみると軒瓦やのし瓦が圧倒的な量を占めており、塀や檜皮葺き屋根の棟などに使うことを目的に作られたとみられる。陶器類は黒褐色をした山茶碗や小皿のほかに3号窯から出土した蓮弁文壺と水注があり、仏具を焼成していたと考えられる。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻161ページ、20巻466ページ