重原氏

 

(しげはらし)

【古代・中世】

三河の重原荘を平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて支配したと思われる武家。系譜関係などはまったく不明。その足跡としては、平治の乱(1159年)に際して源義朝の軍勢に重原兵衛父子が加わっていたこと、建保元(1213)年に後鳥羽院が法勝寺に出向いた際の警固に重原左衛門尉実広(次広ヵ)が加わっていたこと、承久の乱(1221年)では後鳥羽院の軍勢に加わり、尾張川の戦いで鎌倉幕府軍と戦ったことが知られるにすぎない。平治の乱だけをみると源氏側に組織された武士とも思えるが、そののちの行動からはむしろ天皇家領荘園と思われる重原荘の荘官として、天皇家の意向に従っていたとみるべきであろう。平治の乱でも、後白河院の近臣である貴族からの動員に応じたと考えられる。鎌倉幕府の御家人とはならない道を選んだ武士であったが、承久の乱に敗れ、歴史上から姿を消す。重原荘は幕府の吏僚である二階堂氏を新たな地頭として迎えることになった。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻207ページ