(しげはらのしょう)
【古代・中世】
西三河の荘園。荘域は現在の刈谷市・知立市と、豊田市の南部(駒場・堤・若林・竹村など)に広がっていたと思われる。立荘の時期や経緯、領主などについてはまったく不明。ただ、次の出来事が注目される。建武3(1336)年9月、足利尊氏に擁立された北朝の光厳上皇が、京都の勧修寺に寺領を安堵している。その中に、重原荘が入っていた。勧修寺は平安時代中期に醍醐天皇が母の菩提を弔うために建立した寺で、中世には皇族が入寺する門跡寺院となった。天皇家との関係が深く、その寺領も実質的な天皇家領荘園としての意味を有していたであろう。また、元弘元(1331)年11月、京都の笠置山を落として後醍醐天皇を捕らえた鎌倉幕府軍が京都を去るに当たり、大将軍の一人である大仏貞直は持明院統に挨拶に出向いて歓迎され、足利高氏(尊氏)は挨拶に来ないことを非難された。高氏は持明院統が国主である三河の守護をつとめる縁故から、挨拶に出向くことが当然視されていたのであろう。貞直は重原荘の地頭であった。重原荘が天皇家領荘園であったため、貞直はわざわざ持明院統のもとを訪れ、持明院統もそれを歓迎したと考えられる。これらから、重原荘が平安時代末期に天皇家領荘園として立荘された可能性を見出すこともできるであろう。そしてその荘官となったのが重原氏であった。平治元(1159)年には重原兵衛父子が源義朝の軍勢の一員として平治の乱に参戦し、また承久3(1221)年には重原氏が後鳥羽院の軍勢に加わって鎌倉幕府軍と尾張川に戦ったのである。ここで敗れた重原氏は歴史の表舞台から消え去り、重原荘は新たに二階堂氏が地頭となった。それから60余年を経て、弘安8(1285)年の霜月騒動で二階堂行景が討たれると、新たな重原荘地頭として大仏氏が登場したのである。さらに建武政権の下では足利尊氏がこの地を領有することとなった。そのため、室町時代にも、この地域は足利将軍の直轄地である御料所が置かれ、奉公衆である借宿氏や堤氏などがそれを預けられる形となっていた。戦国時代に入ろうとする頃でも、この地は西三河の要衝として諸勢力が進出を競い、やがて南部から水野氏が勢力を広げていくのである。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻206・367・393・470ページ