(しだれようすいふつうすいりくみあい)
【近代】
枝下用水の水源地の河川工作物をめぐる河川管理者の愛知県と用水起業権を持つ河村隆実との行政訴訟は、明治34(1901)年7月、県の勝訴で決着をみた。翌34年8月以降、西加茂郡と碧海郡は水利組合を設立して、起業権を河村から譲り受ける協議を関係者と始めた。河村は18万円での譲渡を提案したが、枝下用水側は10万円を主張した。9月枝下用水の両郡総代は集会を開き、用水水利組合の設立、起業権売買価格などを議題とした。その後関係町村代表と河村との間で譲渡価格をめぐる交渉が続けられ、12月西加茂郡長原田種澄は15万円案を河村に示した。そして翌35年1月関係町村代表は両郡長を立会人として、河村から15万円で起業権の譲渡を受ける契約を結んだ。そして2月枝下用水普通水利組合の設立が認可された。3月には河村隆実から普通水利組合に起業権およびその他の権利が15万円で譲渡され、用水事業は河村の営利事業から普通水利組合の公共事業へと位置付けを変えた。県は同じ3月、内務省・大蔵省に普通水利組合の起債を認可するように要請した。しかし西加茂郡内では、原田郡長が進めた15万円での起業権譲渡や用水組合の強引な運営に対する反発が強くみられた。この問題を尾三自治同盟会という組織が追究し、西加茂郡の浦野錠平や大岩勇夫らがその先頭に立っていた。こうした対立の結果、6月原田郡長は転任することになった。明治41年4月、政府は水利組合条例に代えて、水利組合法を公布した。この法律は水利土功をめぐる利害関係者間の紛争を防ぐために制定された。これに基づいて同年9月、枝下用水普通水利組合の規約を取り決め、また西加茂郡長が組合管理者に指定された。組合議員の選出、事業の管理、配水事業などの規約内容であった。普通水利組合の関係町村からの代表は、明治35年の時点では12選挙区・総代人数40人であった。明治39年の町村合併後に規約が改正され、代表は12選挙区・組合会議員35人となった。41年の新たな普通水利組合では4選挙区・組合議員数35人となった。他方、同年12月明治用水の普通水利組合も規約を定めた。こうした普通水利組合の設立後、矢作川の水不足や水勢の減少という変化もあって、枝下用水と明治用水とは引水量をめぐる対立が生じた。枝下用水普通水利組合側には起業権の譲渡の際の負債返済という課題があり、ようやく大正8(1919)年度に全額の償還を終えた。これより前の大正2年10月高岡村会は、枝下・明治の両普通用水組合の合併を求める決議を行った。水源と地形の共通性から両組合の合併は理想だとし、矢作川の水量の減少などを考慮して、合併による水量増加策を講じるべきだとした。大正13年9月から明治用水組合会議で合併議案の審議が始まり、両用水の共通の利益を実現するための合併を承認した。枝下用水側も翌14年4月合併を審議した。同年11月に合併委員会が開かれ、両組合の財産状況や灌漑反別などを考慮した合併条件が話し合われた。12月愛知県知事は合併を認可し、明治用水普通水利組合が枝下用水の事務と財産を引き継ぐ形で、翌15年1月1日に合併が実現した。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻459・578ページ、12巻204・226ページ