(しちじょういん)
【古代・中世】
名前は藤原殖子。後鳥羽天皇、後高倉院の生母。正治2(1200)年3月までには三河の分国主となっていた。その状態は安貞2(1228)年に七条院が没するまでつづいたと思われる。その存在が、承久の乱(1221年)で三河から多くの武士が後鳥羽院側に与した要因のひとつであろう。また、鎌倉幕府が乱のあとに足利義氏を三河の新守護としたのも、七条院に対抗できる大物を送り込んで三河を掌握する意図があったと思われる。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻228ページ
七条院 ?~1228
(しちじょういん)
【古代・中世】
名前は藤原殖子。後鳥羽天皇、後高倉院の生母。正治2(1200)年3月までには三河の分国主となっていた。その状態は安貞2(1228)年に七条院が没するまでつづいたと思われる。その存在が、承久の乱(1221年)で三河から多くの武士が後鳥羽院側に与した要因のひとつであろう。また、鎌倉幕府が乱のあとに足利義氏を三河の新守護としたのも、七条院に対抗できる大物を送り込んで三河を掌握する意図があったと思われる。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻228ページ