(しゃちのみやくしょ)
【近世】
旗本鈴木家が知行所支配のために酒呑村(松平地区)に置いた役所。九久平役所鈴木家と則定役所鈴木家は同族である。初代鈴木信光(重行・政勝とも)は、兄重政・弟康政とともに家康に仕え、使番や伏見城留守居を歴任したが、病に罹り酒呑村に帰ったという。信光の跡を継いだ重氏は秀忠の小姓を務め、寛永2(1625)年三河国加茂郡で知行920石を宛がう朱印状を与えられている。さらに、寛永10年に200石加増され知行1120石となる。以後、重俊・重之と続く。次の友之助(諱不明)の代に弟政房に300石を分知して知行850石となり、友之助死後嗣子断絶で改易となる。酒呑村は政房が引き継ぎ、引き続き役所を置いた。以後、政房の子孫が明治維新を迎えるまで支配した。酒呑役所は安政年間(1854~60)に閉鎖され、陣屋が担ってきた業務は幕府の赤坂役所に委任された。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻512ページ