獣害

 

(じゅうがい)

【現代】

山住みの人たちは、獣を恐れ、柵で囲った中で家に住み、畠を耕作して暮らした時代があった。奥三河の小村名に多い「カイト」(垣内)はそのような起源をもっていたと考えられる。徳川政権が誕生する前までは、戦国期の混乱もあるなかで、人々は自由に移動し、焼畑や切替畑、新田などを切り開き、山間部を開拓、入植して小村を作った。鉄砲や弓矢を持った狩人達を恐れ、獣はその多くが奥山に引っ込み生息した。マタギ、狩人はそのような獣を追ったことからもわかる。その獣が山を下り始めたのが、第二次世界大戦後それも高度経済成長以降である。一つは、山村からの挙家離村や、人口流出により、獣の生息範囲が人間に変わって拡大し、残された人間世界へ農作物を求めて入り込み、獣害で農業が存続できない状況まで深刻化するようになったこと、その最前線では、現代版の柵囲いのカイトが誕生していること、またもう一つは、人口が集中する大都市周辺での土地開発が隣接する山野へも及び、行き場のなくなったイノシシやシカ、タヌキなど、さらに鳥類までもが近場の街の中へはいりこむようになり、時に住民に危害を加えるようになって、獣害の範囲が広がりを見せ始めたことである。市域でもそのような獣害は増大している。平成20(2008)年には市街地である挙母地区を除くすべての地区でイノシシの被害が生じており、高橋や高岡、上郷などの平野部にも広がっている。足助や旭、小原など山間部では多発している。市内におけるその被害面積は40ha余にのぼり、被害額は水稲、野菜、イモ類を中心に3300万円を上回る。本来なら、人間と獣は空間的なすみわけが必要であり、獣害は野生動物側からのサインだと理解し、人間側が相互のすみわけの方法を自然保護も含め、野生動物側にもわかる形で提案していく時期に来ているといえる

『新修豊田市史』関係箇所:5巻601ページ