守綱寺本堂・鐘楼堂・太鼓堂・山門

 

(しゅこうじほんどう・しょうろうどう・たいこどう・さんもん)

【建築】

寺部町(高橋地区)。三河寺部領主渡辺家の渡辺半蔵守綱が元和6(1620)年に没したあと、2代重綱が寺部村横山の墓所に一宇を建立して菩提を弔い、横山御堂と称していたが、寛永16(1639)年3代治綱が名古屋興善寺より恵頓を住持に招いて開山とし、真宗大谷派の渡辺山守綱寺を設立した。その後、治綱は寛永20年に上宮太子、三朝高僧真影を授かり、翌正保元(1644)年に伏見城の軍議評定所を拝領して現本堂を建て、寺域を整えたと伝えられている。その後元禄4(1691)年に5代定綱が親鸞上人の御影を受けている。大名の菩提寺らしく寺部郷の中心部にあり、西は侍屋敷と隣接し、さらに矢作川を臨んでいた。南面した寺地は南北に長く、他に山門、太鼓堂、鐘楼堂、庫裏等があり、本堂裏には元和年間(1615~1624)以降の渡辺家累代の墓が並んでいる。本堂(写真)は桁行実長9間半、梁間実長11間半を主屋とする奥行の深い堂で、主屋正面に後補の向拝1間と西側後半部に1間幅の下屋が付く。外観は、寄棟造、銅板葺、一軒疎垂木、妻入、向拝1間付の堂で南面する。柱は来迎柱と内陣廻り(正面を除く)に円柱を用いるほかは面取角柱が用いられる。内陣は来迎柱と須弥壇を用いた後門形式とする。間取りは、堂前半の桁行7間半、梁間4間を外陣、その奥1間を矢来内として、外陣と矢来内の正側三方に1間幅の広縁を廻らす。堂後半は中央の間口3間半を内陣、その両脇に間口2間を余間とし、ともに奥行4間半で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。余間の外側に間口1間の落間を配すが、西落間では、下屋を取り込んで間口2間とする。内陣と余間の背面には奥行1間の後堂を通す。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。守綱寺本堂は領主渡辺家の菩提寺として建立されたもので、門徒に支えられた一般真宗寺院とは著しく趣を異にしている。さらに、軍議評定所を下賜されて建てたという経緯があったからかもしれないが、この堂では堂前半の外陣廻りの蔀戸、外陣内奥行の飛貫上の小壁、棹縁天井(矢来内は彩色画を施した鏡天井)を用いるなど邸宅風で閉鎖的に扱われているのに対し、堂後半の内陣廻りや余間廻りは円柱の黒漆塗り、金碧画の襖障子、小壁の彩色画、来迎柱・来迎壁の金箔押し、高肉彫欄間、組物(平三斗)、格天井などの極彩色を施した派手な手法を用いて仏堂化している。なお、本堂はその後の改修がほとんど行われておらず、建立当初の状態がよく知られる点でも貴重な存在といえる。鐘楼堂は、方1間(3.25m四方)、入母屋造、桟瓦葺(もとは本瓦葺)の建物で、慶安元(1648)年に領主の渡辺重綱が父半蔵守綱菩提のために寄進したものである。太鼓堂は、方1間(2.8m四方)、宝形造、露盤・宝珠付、本瓦葺の小堂で、切石積みの基壇上に建つ。建立年代は、棟札によれば慶安元年であることが知られる。山門は一間薬医門、桟瓦葺、一軒疎垂木で、小型の門で組物もなく簡略な構造としている。建立年代は明らかでないが、絵様によれば江戸時代中頃の建立であると推察される。本堂・鐘楼堂・太鼓堂・山門は市指定文化財。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻67ページ