酒造 

 

(しゅぞう)

【民俗】〈諸職〉

酒造りは11月から3月にかけて行われ、酒造りに携わる職人たちがやってきた。これを「蔵始め」もしくは「蔵開き」といった。職人を取りまとめる責任者が「杜氏」で、その下には補佐役である「頭」、醪を管理する「台司」、麹を管理する「麹屋」、酒を搾る「槽屋」、米を蒸す「釜屋」、下働きの「働き人」がいた。頭以下の職人をクラビト(蔵人)、サカロクと呼ぶこともあった。四郷(猿投地区)の浦野酒造の場合、杜氏と蔵人が来ると酒蔵の清掃と消毒を行い、猿投神社の神職がお祓いをした。酒造りでは、まず精米を蒸し、冷ました後にムロ(室)で種麹菌をまいて麹を作る。これを蒸した米と一緒に水に入れ、酵母を加えて酒母を作った。「段仕込み」といって酒母に麹、蒸した米、水を三段階に加えていくと醪となる。醪の段階では、成分を均一にして空気を入れる必要があり、桶の中をカイ(櫂)で掻き混ぜた。押す時はツキガイ、引く時はヒキガイといった。醪が発酵すると原酒となり、圧搾して生酒と酒粕に分けた。生酒は火入れして貯蔵することもあった。出来上がった酒は瓶詰めしてラベルを貼って出荷した。正月も過ぎてその年の酒造りが終わると、造り酒屋ではコシキアゲ(甑上げ)もしくはコシキダオシ(甑倒し)と呼ぶ慰労会を催した。この時は、酒造りに直接関わった杜氏や蔵人のほか、酒蔵や道具の保守に携わってきた桶屋や大工、左官などのオデイリ(お出入り)の職人も招かれた。浦野酒造では、酒造りの職人たちの食事の世話は、マカナイサン(賄いさん)という年配の女性が当たっていた。酒造りは休む間もなく行うため、職人が地元の人と交流することは少なかったが、四郷の人たちは、賄いさんが食材の買い出しをするようになると酒造りの季節が来たとわかったという。また、造り酒屋に近所の子達が遊びに来ると、職人が酒の原料の蒸した米を両手で揉み、ヒネリモチにして振舞ったという。〈諸職〉

『新修豊田市史』関係箇所:16巻164ページ