浄覚寺本堂

 

(じょうかくじほんどう)

【建築】

宮町(挙母地区)。当初は天台宗に属し、碧海郡西端村(現碧南市)に創始されたという。その後、永享年中(1429~41)に堂守の円智が佐々木上宮寺において得度し、浄土真宗に改宗して上宮寺末となる。3代杉浦修理輔道満の長男4代浄光は寛正5(1464)年に蓮如の弟子になり、法蔵坊と号し、浄覚ともいった。上宮寺31世如光とともに本願寺の再興に尽力し、晩年の永正年中その子5世道喜とともに西宮口村に移り堂宇を建立して浄覚寺を創立した。その後、度重なる水害のため、現地に移って3度建立したとされる。寛文13(1673)年9月12日に本山から「上宮太子、三朝高僧真影」を下附された。寺伝によれば、現本堂は享保4(1719)年に建立されたものである。本堂は、入母屋造、本瓦葺、平入、向拝1間(実長3間)付で、南西向きに建てられている。規模は桁行実長7間、梁行実長8間半の中型の真宗本堂である。間取りは、前半の間口7間、奥行3間を外陣、その奥の1間を矢来内とし、外陣の正面と西側の二方には、擬宝珠高欄付の縁を付け、正面中央に落縁と木階4級を設ける。堂後半は中央の間口3間を内陣、両脇の間口2間を余間とし、ともに奥行3間半で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。さらに西余間の外側には間口1間半の落間を配し、堂背面には奥行1間の後堂を通す。内陣は来迎柱と須弥壇を用いた後門形式を採用する。柱は来迎柱と脇仏壇前柱の4本を円柱とするほかは面取角柱である。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、広縁前の正面中央の柱間、矢来内正面の柱間、外陣内梁行の柱間、脇仏壇・余間仏壇正面の柱間に渡され、矢来内正面に蟇股を置き、余間仏壇正面に出組斗栱を詰組に載せる。外陣外廻りは正面柱間に双折桟唐戸(両端間は耐力壁)と腰高ガラス障子(旧障子)を入れる。内陣および余間正面は、柱上と束上に出組を載せ、内法上に龍の高肉彫欄間を嵌め、柱間には内陣前に双折巻障子、余間前に千本障子を入れる。内陣・余間境は前より2間目に角柱を立て、柱間を開放して、柱上と束上に出組(内陣側は出三斗)を載せる。天井は広縁と外陣と矢来内と余間を格天井、内陣を折上格天井とする。この本堂は、外陣部分と内陣後背部分、および後堂部分の改造が大きく、大半が新材に替わっているので、明治期に大修復が行われたのであろう。須弥壇裏には、「明治十三年二月名古屋梅川町、知多屋金治郎作」の墨書があり、須弥壇と宮殿をこの時に新造している。この本堂を復原すると、堂後方の側背面の下屋部分が取れ、内陣と余間では、奥行が2間(内陣側面の角柱位置)と浅くなり、背面の脇仏壇と余間仏壇位置が1間手前に移され、仏壇は一直線に前面を揃えた通し仏壇の形式であったことがわかる。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻61ページ