(じょうこくいんほんどう)
【建築】
小町(足助地区)。当寺は、開山根誉善公が諸国を修行行脚していた際、足助荘大坪村(旭地区)に一宇を建立したが、火災に遭ったため天文7(1538)年に小町村に移転して堂宇を再建し、安養山浄國院と称したとされる。現本堂は、須弥壇内部墨書(裏板)があり、文政5(1822)年の建立とみてよい。鐘楼門は、棟札によれば文政11年18世圓戒代の建立である。本堂は、桁行3間(実長7間)、梁間7間(実長7間)、入母屋造、桟瓦型鉄板葺、一軒半繁垂木、1間向拝付、南面建ちである。柱は、来迎柱、内陣前面2本を丸柱とする他は面取角柱とする。堂内は、前1間の広縁では畳敷詰として棹縁天井を張り、外陣では前面を柱間3間として中央間を背違いに高く敷居、虹梁を渡し、虹梁の上下いずれも開放している。現在の外陣では前より奥行2間半の位置に上段框を東西に通して後半の床高を上げている。しかし、これは内陣の床高に合わせて外陣ならびに脇の間の床高を上げたものであり、当初の外陣は凹字型の84畳の空間として棹縁天井を張っていた。脇の間は、現在内陣前面の半間前に上段框を通したため、前面が内陣前面と一致し、間口1間、奥行4間の14畳の扱いとなり、後端に位牌壇を設けている。しかし、当初の脇の間は前面が内陣前面より1間半後退し、幅1間の上段とその奥に幅半間の位牌壇が造られたとみられる。内陣は、現在前述のように前面の半間前に上段框が通されたため、内陣の平面的な機能が広げられたが、当初の内陣は前面柱間3間、両側面柱間1間に上段框を通し、内法上部に大虹梁を渡し、その上には板小壁を入れ、柱上に頭貫(端木鼻)、台輪を通し、出組斗栱を置き天井を支えていた。内陣前面より3間後方に来迎柱を立て、前面に禅宗様須弥檀を出し、柱上に頭貫(端木鼻)・台輪を通し、出組斗栱をおき、折上格天井を張っている。来迎柱の奥では、現在半間幅の通路をとり、中央に後門、その両脇に脇仏壇を造り、その奥に半間の通路をとって幅半間の位牌壇を東妻まで通し、西側では8畳分、10畳分の2室を並べている。これらの下屋部分は後世の付加である。この建物は、内陣周囲を丸柱、虹梁、斗栱で荘厳し、内陣を凸字型、外陣を凹字型の空間を形成しており、近世後期の浄土宗本堂としての特徴を示した遺構である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻49ページ