(しょうじゅじほんどう・さんもん)
【建築】
黒田町(稲武地区)。寺は、曹洞宗、創立は不詳であるが、開基は伊良親王供奉の新田親氏とされ、親王書写と伝える大般若経3巻、硯石・鹿の玉などを所蔵する。その後、慶長年間(1596~1615)に観相玄察により中興されたという。本堂は18世紀前半の建立とみられる。本堂(写真)は、桁行7間、梁間7間、寄棟造、鉄板葺、南面建ち。間取りは、前面に広縁を通し、前後2列、横3室の方丈形式であるが、当初は広縁の前に土間(露地)を通した前面土間6室型の曹洞宗本堂であった。堂正面は、現在中央柱間に木階を付し、敷居、差鴨居を通して入口とする。その両脇は真壁とし、さらに両脇各2間に中敷居、差鴨居を通し、引違い戸を入れ、内法上を小壁とする。堂内部は、現在広縁では幅2間の板敷とするが、当初は前1間が土間(露地)であった。しかし、土間の両妻柱間には鴨居を床より六尺強高に通すため、入口部分のみを土間とした可能性がある。大間は、間口3間半、奥行2間半の17畳半とし、前面では中央柱間に虹梁を渡して開放し、その両脇では敷鴨居・内法長押を通して引違い戸を入れ、内法上小壁とする。大間両脇では、内法上を開放し、棹縁天井を張る。上・下の間は10畳、上奥・下奥の間は8畳とし、いずれも棹縁天井を張る。上奥の間では、現在背面を位牌堂の通路とし、下奥の間では床の間を設ける。内陣は、前面に2本の丸柱を立て、中央を高く3スパンの虹梁を渡し、柱上に出三斗を載せる。中央後方に来迎柱を立て、前に須弥壇、後に仏龕を出し、柱上に出組斗栱を載せ、柱頂に持送り、板支輪を用いて棹縁天井を張る。内陣後方では、堂背面に長い仏壇を造り、中央に開山、宗祖、諸仏等を祀り、その両脇に大権大師、達磨大師、その外側に檀家の位牌を安置する。山門は、切妻造、銅板葺の四脚門である。主柱を丸柱、控柱を面取角柱とし、主柱間に蹴放、冠木長押を通し、唐居敷を加えて板扉を吊る。控柱と主柱間には腰貫、頭貫、控柱間に頭貫を通し、柱上に大斗・肘木を載せる。両妻は、軒桁を繋ぐ妻梁を渡し、太瓶束・笈形付をみせ、破風には蕪懸魚を吊る。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻169ページ