淨照寺本堂・庫裏・書院・北ノ御所

 

(じょうしょうじほんどう・くり・しょいん・きたのごしょ)

【建築】

若林西町(高岡地区)。寺は、永仁4(1296)年に存澄が本村の寺屋敷と呼ばれている地に天台宗の一宇を創建したのが始まりとされる。永正元(1504)年正宗が願主となって、安城野寺の本證寺を通じて本願寺第11世顕如から本尊を下付されており、正宗は改宗開山となる。寛文年間に無住の時代があったが、その後再興され、寺記や墨書によれば万延元(1860)年には庫裏を再建、明治18(1885)年には現本堂を起工し、同31(1898)年に落慶した。昭和9(1934)年に書院が建立されている。以後、玄関、鐘楼堂等を再建して寺観が一新された。平成22年には北ノ御所が移築再建され、平成25(2013)年に教如上人400回忌法要記念に四脚門を建立した。本堂(写真)は、入母屋造、本瓦葺、向拝1間(実長3間)付で東向きに建てられる。規模は、桁行実長10間、梁間実長10間で明治時代の真宗本堂の特徴を示す。内陣は来迎柱と須弥壇を用いた後門形式を採用する。柱は来迎柱と内陣・余間廻り、及び外陣内の独立柱を円柱とするほかは面取角柱とする。間取りは、堂前半の間口7間、桁行3間を外陣、その奥1間半を矢来内とし、外陣の正側三方には1間幅の広縁と半間幅の擬宝珠高欄付の落縁を付す。堂後半は中央に間口3間の内陣、その両脇に間口2間の余間とし、ともに奥行3間半で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。余間の外側には間口1間の落間と間口半間の縁を配し、堂背面に奥行1間の後堂を通す。床高は余間が上段、内陣が上々段となる。畳寸法は中京間を使用している。この堂では、外陣や余間に円柱・出組・小組格天井を用いるなど仏堂化が一層進んでいるが、一方で、金箔張りなどの過度な装飾を抑え、欅の素材を活かした造りになっている。また、内陣正面の欄間の迫力ある渡り龍が見どころの一つになっている。庫裏は、桁行12間、梁間6間、切妻造、桟瓦葺、平入で南面して建つ。この建物の軒高は高く、破風にやや反りを付け、周囲に瓦庇を取り付けた大型の民家型の土間整形六室型の庫裏である。墨書によれば、万延元(1860)年の再建で、御用宮大工棟梁尾張国知多横松住人、山本金四郎の名がみえる。書院は、昭和9(1938)年の建立。本堂の北側に位置し、庫裏の西妻廊下奥に大棟を東西に向けて建てられていたが、近年本堂寄りに移され、新たに式台が設けられた。書院は切妻造、桟瓦葺の建物で、周囲に庇を付ける。間取りは、南北2列、東西2室の4室で周囲に廊下を廻らしている。北ノ御所は、近世初期に京都本願寺の第12世教如の隠居所として建てられたという伝承がある。北ノ御所は、入母屋造、銅板葺で、周囲に庇を廻らし、妻を東向きに建てられている。建物規模は桁行実長6間、梁間実長4間で、周囲に半間幅の縁を廻らす。室部分は各室すべて8畳間で、南北2列、東西3室の整形六間取の形式をとる。建立年次は移築修理報告書によれば文禄3(1594)年~慶長7(1602)年とされる。本堂・庫裏・書院は国の登録有形文化財に登録されている。

『新修豊田市史』関係箇所:22巻88ページ