(じょうぞうぎょう)
【近世】
市域では規模は異なるものの酒造業を営む家が存在した。岩倉村平藪(松平地区)の宇野家の屋号は「酒屋」で、少なくとも寛文期(1661~73)には小規模ながら醸造業を営んでおり、天明8(1788)年までには酒造米高を750石にまで伸ばしている。花園村(高岡地区)の寺田家も享保12(1727)年に酒造株高5石を借り受けて小規模な経営から始まり、天明8年までに酒造株高70石、酒造米高900石の酒造株を所有するまで経営を拡大しているが、19世紀前半の文政期以降、徐々に酒造業から離れている。嘉永7(1854)年、岩倉村宇野善右衛門や大沼村新井前(下山地区)の日野屋源八など市域南部酒造業者と奥殿村など岡崎市域の酒造業者11人が、岡崎城下への酒の売り込みに関連して集会の開催とそれへの参加を呼びかけている。東海道の宿場を城下内部に抱え込み、酒の需要が見込まれる岡崎城下への販売ルートの確保と独占・調整が、市域南部の酒造業者にとって重要な課題であったことを示している。一方、花園村の寺田家や岩倉村の宇野家は、一時期江戸方面への販売ルートの開拓を試みている。なお、足助の小出家や稲橋村(稲武地区)の古橋家も酒造業を営んでいた。このほか江戸時代の村では各家で自給用として醸造されていた味噌を商品として醸造し、販売する家も存在した。その代表的な存在が足助の紙屋鈴木家と小出家、稲橋村の古橋家である。紙屋鈴木家と小出家による味噌の醸造と販売は、両家の経営のなかでも重要な位置を占めていたとされ、また両家は味噌醸造の副産物である溜(溜まり醤油)の販売も行っていた。原料である大豆と塩は、小出家の場合、平坂村(西尾市)の石川小右衛門・市川彦三郎らから購入している。古橋家のある稲橋村は伊那街道の宿場である武節町村に隣接する村であり、足助とともに街道沿いの都市的な場であったことが商品としての味噌の需要を高めたと考えられる。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻331・352ページ