(しょうとくたいしこうようぞう)
【古代・中世】
七高僧像とともに浄土真宗寺院の本堂余間に掛けられるもの(写真:守綱寺蔵)で、「聖徳太子」が16 歳(他年齢の説もある)の時に父用明の病気平癒を仏教に念じた姿を描く(絹本着色、縦約100cm×横約50cmの規模)。「聖徳太子」は奈良・平安時代以降、現代に至るまで日本人によく親しまれ、信仰の対象となったが、その中で、浄土真宗においても「聖徳太子」信仰は盛んであった。鎌倉時代に浄土真宗を開いた親鸞自身が「聖徳太子」を「和国の教主」(日本仏教の祖)として讃えて深く崇敬し、その後の親鸞門流においても「聖徳太子」信仰が営まれた。それをうけて戦国時代に本願寺蓮如が本尊を阿弥陀如来のみに措定するとともに「聖徳太子」は孝養像で定型化し、本堂余間に掛けることにしたのである。なお、その軸裏には本願寺等真宗本山の誰がいつどこの誰にこの「上宮太子真影」を授けたのかという情報が記されていることが多く、七高僧像と同時の授与が通例である。