常福寺本堂・厨子

 

(じょうふくじほんどう・ずし)

【建築】

槙本町(旭地区)。由緒・沿革は不詳であるが、本堂内に27枚の棟札・木札を蔵し、最も古い棟札には、行基菩薩の開創にして、自ら本尊を刻んだと記される。また、郷社八幡社の内院で、本尊は八幡神の本地仏といい、平安時代の作とされる十一面観音立像(県指定文化財)が現存する。現在は無宗派であるが、棟札には大鷲院(新盛町)前住職、本光寺(幸田町)11世雪渓存峰を中興開山として、寛文6(1666)年に現在の堂と厨子を新造し、慈眼山常福禅寺(浄福禅寺)と記されており、以前は曹洞宗であったと考えられる。本堂(写真)は寄棟造、茅葺(鉄板覆)、妻入の堂で、南面して建つ。正面3間、側面3間半で、現在は正面に奥行1間の桟瓦葺の下屋を増築している。主屋の柱は面取角柱で、柱上に舟肘木を載せて軒桁を受ける。間取りは、正面に増築された部分を畳敷きの礼堂とし、これより奥の2間を外陣、背面の奥行1間半を内陣とする。主屋の柱間は、外陣正面で開放(旧建具)し、外陣側面に引違い腰付障子2本、内陣の西側前端に板戸と障子が入れられている。その他柱間は板壁となる。内陣・外陣境の柱間は、当初は嵌め殺し戸で区画されていた。内陣は拭板敷で、背面中央部分の床を框一段高くし、厨子を安置している。天井は棹縁天井である。厨子は棟札によって寛文6年の建立であることが知られ、大工棟梁は藤原朝臣今和泉平右衛門尉成次である。正面1間(1.854m)、奥行1間(0.89m)、切妻造、板葺、妻入の比較的大型の和様を基調とした一間厨子であるが、背面の柱と板壁は本堂と一体に造られ、装飾も少なく極めて簡素な扱いで、他の宮殿型厨子とは大きく異なる。

『新修豊田市史』関係箇所:22巻191ページ