(しょうぼうせいど)
【近代】
近世の消防制度は地域ごと異なっていた。明治維新後も、明治27(1894)年2月の「消防組規則」による官設消防組の設置に至るまで、消防組織のあり方に全国統一的な基準は存在せず、多くが市町村や民間の裁量に委ねられていた。市域では、明治3年12月の挙母藩による「近傍失火規則」を嚆矢とし、続く額田県では明治5年に失火規則が定められ、消防の整備がはかられた。同年11月に額田県を編入した愛知県は、明治7年8月の「失火之節番人心得・消防組心得」で、消防組を警察の指揮監督下に位置付け、さらに明治10年4月に「消防規則・消防組心得・巡査心得・警部心得」を出し、県内一律での消防制度の整備を進めた。しかし、明治14年3月に消防規則が取り消されると、その後は各町村の裁量で消防組や規則が設けられた。西加茂郡の小白見村と野口村では同年5月に私立消防仮規則が、北設楽郡第十七組では明治17年10月に消防組設置申合規則が、それぞれ制定された。消防夫の担い手は15歳以上の男性とされ、それへの従事は「義務」と見なされた。
『新修豊田市史』関係箇所:10巻252・767ページ