(しょうぼうだん)
【民俗】〈社会生活〉
自治体消防が整備される以前、火災の消火活動に当たったのが消防団で、戦前は消防組、戦時体制下では警防団と呼ばれた。加入年齢は学校卒業後の18歳から20歳くらいとするものや、青年会の退会後など、地区によってさまざまであった。消防団は定員制で、定員を超えれば年長者から退団していった。その目安は、かつては28歳、30歳であったが、現在は35歳から40歳というものが多い。消防団への加入はムラ人の義務であり、乙部(猿投地区)ではほかのムラから婿養子に来た者は、3年間消防団を務めることになっていた。会社勤めの人は消防団に加入することが難しく、寺部(高橋地区)では出不足金を出して加入を免除してもらったという。消防団組織について、昭和32(1957)年の吉原(高岡地区)の事例では、役員は正副団長各1人、消防・衛生部長各1人、評議員7人で、年1回の総会の際に役員改選があった。ムラで火災があると、ほかのムラから消防団や区長などが応援や見舞いに来てくれるため、区長や総代が受付の窓口を設け、ムラ人がおにぎりの炊き出しをした。鎮火後は団長が消防団のシンボルであるバレン(纏)を持って、総代や火の元の家の者と各ムラへお礼の挨拶に廻った。トナリムラなどで火災や災害が発生した場合、消防団が纏を持ち、腕用や動力のポンプを引いたり車に乗せたりして救援に出かけた。その範囲は、平野部ではトナリムラ・ワキムラであったが、大きな災害の場合、小原・旭地区の県境のムラでは岐阜県土岐市や恵那市まで行ったという。消防団が実際に消火作業に当たったのは昭和40年代の後半までで、その後は車両の整理や警備活動を担当している。その際には消防団長らが纏、団旗を持って火事現場に駆けつけ、応援先の現場に立てる。消防団は水難事故でも活躍したほか、年末の火の用心の啓発活動、正月の出初式、防火水槽の清掃、ポンプや各家のかまど検査なども行った。〈社会生活〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻527ページ、16巻481ページ